ひらがな法話hirahou
なんでも「鑑定」?
あるご法座で講師の先生が、『なんでも鑑定団』というテレビ番組を取り上げていらっしゃいました。そのお話を聞いて、それまで何の気なく、おもしろい番組だと思ってた私は考えさせられました。
ご存知のように、この番組では、蔵の中から古いものや珍しいものを持ち出して、鑑定する人に「〇〇〇円です」と値段をつけてもらいます。そして、それが高額ならよろこんで、安ければ、ため息です。
つまり、鑑定と称して値段をつけているわけですね。ものの価値をお金という尺度(ものさし)で測るわけです。
そして、その金額が高ければ「たいせつなもの」「すばらしいもの」になり、安ければ「粗末なもの」「どうでもいいもの」となります。値段を決めることを値踏みといいますが、なんでも鑑定とは、なんでも値踏みということです。
しかし、なんでも値踏み、つまり、お金というものさしで価値が決められるものでしょうか。
そのご講師は、戦前のセルロイドの櫛を大切にしている女性のお話をされました。彼女は、子どもの時に母親と戦争中の空襲に遭いました。親子で炎の中を逃げ惑ううちに、焼けた柱が倒れてきました。
そのお母さんは身を呈してわが子を護もり、そして息絶える前に髪からはずして娘に手渡したのが、その櫛だったのです。
もし、この櫛を鑑定団に出したなら、どうでしょう?
「これは、たしかに戦前のものですが、べっ甲などの高価な材質ではなく、安物のセルロイドですね。はい、三千円。」
なんてことになるでしょう。
でも、その女性は三千円どころか、三千万円でも他人に売り渡すことはないでしょう。なぜなら、その櫛はその女性にとっては、母親の形見、いや母そのものなんですから。他人が何千円といおうが、何千万円といおうが、関係なく大切な宝物なのです。
こんなふうに、値段のつけられないものだってたくさんあります。そんなものまで、なんでも鑑定、なんでも値踏み…です。 「なんでも」ですから、最後には自分の前にいる人さえも鑑定する(値段を付ける)かもしれません。
月給の多い主人は高値がつくでしょうし、年をとるほど値下がりするかもしれません。知らず知らずに、出会う人やその人のいのちにまで、値札をつけていく…。恐ろしいことです。
ところで、
「損か得か」…人間のものさし、
「ウソかマコトか」…仏さまのものさし
という言葉があります。(言の葉より)
『なんでも…』の場合は、そのものさしの目盛りが、金額の多少ということになるのでしょうか。
そして、その損得のものさしの目盛りは、「自分の都合」やまわりの状況によって伸び縮みするのです。さらに、私はそのものさしが確かなものであると信じて疑いませんから、も一つ厄介です。
対して、「ウソかマコトか」が、「仏さまのものさし」です。それは、人間のものさしのように他と比べたり、時代が経てば変わってしまうようなものではありません。
生きている限り私たちは損得のものさしを捨てきれませんが、仏さまのものさしで測ってもらえば、その不確かさ、身勝手さに気づくことはできます。
ですから、「仏教の話を聞けば、耳が痛い」と言われる方があります。これはまさに仏さまのものさしで測られた「掛け値なしのほんとうの私の姿」を聞かされるからでしょう。
勝手なもので、ほめられたり、お世辞にしても自分のことを良く言われると悪い気はしません。しかし、耳の痛い話を聞かされると面白くないものです。自分はそれほどじゃない、と他人のこととして聞き流そうとします。
そういう意味で、煩悩というのは、「自覚症状のない心の病気」なのかもしれません。一番よくわかっているつもりの自分のことがわかっていないのですから…。
今、そんな私のほんとうの姿を、私以上に知り通した上で、放っておけないと心配してくださる方がありました。その方を阿弥陀さま、南無阿弥陀仏とお呼びするのです。