ひらがな法話hirahou
アコヤ貝の涙
■□■ 貝殻の珠 ■□■
「アコヤ貝の涙」 、そんな ロマンチックな題の新聞記事を読んだことがあります。
たしか、京都女子大学(本願寺の宗門関係学校)の新聞だったと記憶しているのですが、残念ながら、記事そのものを紛失してしまいましたので、思い出しながら書いています。ですから、不正確な点もありますこと、お許し下さい。
もちろん、アコヤ貝といえば 真珠貝ともいわれるように真珠の養殖に使われる貝です。その記事には アコヤ貝から真珠を取り出すまでが書いてありました。
まず、アコヤ貝をこじ開けて真珠のもとになる核として 小さな石(1ミリ前後だったとおもうのですが…)を がいとう膜の奥に 挿しこみます。
これは、アコヤ貝にとって致命的な苦痛だそうです。人間で言えば、麻酔ナシで腹を切り裂いてゲンコツほどの大きさの石を押し込む…くらいでしょうか。
痛いなんてもんじゃないですね。それに、アコヤ貝には、私たちのように 手があるわけではないので、石を出そうとしても、深く埋められた核(石)は出ません。だから、アコヤ貝は 「痛い、い・た・い…」と、 うめく…とありました。
「うめく」とは、苦しさのあまりに出した息が声となることをいいます(by 「広辞苑」)。ですから、核石を挿入した貝は、いちばん波の静かな場所(海)に戻しますが、それでも約半年で 半分が死んでしまうといいます。
海中に沈められたアコヤ貝は うめきながら 涙を流します。その涙は、貝殻をつくる成分(たぶんカルシウム)が含まれているそうです.それが、ゴツゴツとした核石の周りを流れつづけます。
すると、ちょうど 漆を幾重にも塗り重ねるがごとく、核石の周りに貝殻のような薄膜ができ、角張っているところが丸みを帯び、全体がだんだん丸い珠(たま)になります。
そして、最後は虹色に輝く珠=真珠になるというのですつまり、真珠は 貝殻の珠なのです。(そういえば、アワビの貝殻の内側も虹色に輝いてきれいです。)ここに至るまでにまた、約半数の貝が死んでしまうといいます。
■□■ 阿弥陀さまと アコヤ貝 ■□■
ここで、その新聞には(さすがに本願寺の関係学校です)「アコヤ貝に阿弥陀さまを重ねて」味わってありました。(下の図を参照)アコヤ貝が阿弥陀さまなら、ゴツゴツと角ばかりある、核(石)が、この私です。
アコヤ貝 | 阿弥陀さま |
角張った核石を入れられて出すこともできない | 煩悩をかかえた私を抱いて捨てることができない |
涙 (貝殻の成分) |
ナモアミダブツ (私を仏にする功徳が具わる) |
石が真珠に | 私が仏に |
石はそのまま | 私はそのまま |
阿弥陀さま(アコヤ貝)は、この私(石)を我が体内におさめとって決して 捨てられない…そして、角(煩悩)ばかりの石(私)を抱いてやはり、うめき声を出される…
「親を見送り、子を見送り、こんな目に合いながら、アテにならないものをアテにして…。まだ、わからないのですか…。」
「ワシが、ワシが、と自分の都合ばかりで周りを振り回す自分の姿に目を覚ましておくれ…。」
「世界中がアナタのことを見捨てても、決して捨てることができない 仏の願いの中にあることに気づいてください…。」
…と。
石(私)を出そう(捨てよう)にも出せない(見捨てられない)のが、アコヤ貝(阿弥陀さま)です。そして、石(私)が真珠(仏)になる成分(功徳)がいっぱいの涙(名号=南無阿弥陀仏)を流されます。
石(私)のカド(煩悩・欲)をこすって(修行して)、石が丸く(立派に)なってツヤを出して(善人になって)、輝く真珠(仏)になるのではないのです。石が石のまま、アコヤ貝の涙(阿弥陀さまの願い)の中で貝と同じ輝きをもつ珠(仏)となるのです。
アコヤ貝が、いのちかけて、角ばった石を輝く真珠に仕上げることを通して、阿弥陀さまがこの私を仏にして下さるはたらきを 味わうことです。
そんなアコヤ貝の話を書きながら、私は何だか恥ずかしくなりました。
アコヤ貝は、苦痛の種である核石を出すことができないとわかった(?)時から、出すことをやめて石を引き受けます。そして、その石をもとに 真珠の宝に仕上げていきます。
ところが、私はどうでしょう?人生の中では、いろんな石が飛び込んできます。私は それに対して「嫌だ!」、「忙しいからダメ!」、と貝のフタを閉じてはねつけます。
しかしながら、どれほど拒絶しても 貝のフタをこじ開けて必ず入りこんでくる石ツブテ(苦)があります。これを お釈迦さまは四苦八苦 と言われました。
つまり、生苦・老苦・病苦・死苦の四苦と
愛別離苦:愛しき人と別れていかなければならない苦。
怨憎会苦:顔も見たくない人と出会っていかなければならない苦しみ
不求得苦:求めても求めたものが手に入らない苦しみ
五蘊盛苦:この心身をもつがゆえに受ける苦しみ
で八苦となります。
この四苦八苦は、どれほど 拒んでも私の中に入ってきます。死にたくなくても必ず死にますし、年をとることも、病気になることも、すべて逃げられません。
■□■ 「どうせ」と「せっかく」 ■□■
アコヤ貝は 角ばった石を石のまま引きうけて 自分と同じ貝殻の真珠に仕上げます(丸いのでもう痛くないでしょう)。
しかし、その石(苦)を 私は簡単に引き受けることができません。いったい、どこが違うのでしょうか?
そのキーワードは、「どうせ」と「せっかく」。
私の方は「どうせ」です。
どうせ、もう若くないんだから…
どうせ、こんな会社なんだから…
どうせ、こんな人と結婚したんだから…
アコヤ貝は、「せっかく」です。
出そうにも出せない石が せっかく入ってきたのだから、宝の珠(真珠)に仕上げましょう。となるでしょう。
そこで、アコヤ貝の「せっかく」に私の「どうせ」を当てはめると
せっかく、今日まで生かさせてもらったんだから、若い時にはわからなかったことを知らせてもらいましょう
せっかく、この会社に入ったのだから、よその会社ではできない仕事をしてみよう
せっかく、この人と縁会って一緒になったんだから世界でたった一組の夫婦になってみよう…
となります。
考えてみれば、痛い核石が入れられたから真珠ができたわけです。
同じように、私も苦(石)に出会い、「せっかく…」と、それを引き受けた時、老いも病気も無駄にすることない人生がひらけてくるのでは、と思うことです。
そして、その苦(石)を引き受ける私を まるごと引き受けてくださる存在がある…。それを阿弥陀さま といただいたらどうでしょう。