ひらがな法話hirahou
同 じ 未 来
何年か数年前のことです。私は東京での用件を終えて、羽田空港のロビーに立っていました。正直なところ、田舎ものの私は、数日間の日程を都会の雑踏の中で過ごし、いささか疲れ果てていました。
空港には、旅を急ぐ見知らぬ人ばかりで、すれ違う人はたくさんあっても、心許し語りあう人はいません。都会の群集の中で一人でいるのは、田舎の山野を一人で歩くよりずっと孤独を感じてしまいます。
そのうち、私の乗る出雲行きの飛行機の案内がありました。全国各地への便がある羽田空港では、飛行機の行き先ごとに搭乗待合室が用意されていました。私はアナウンスにしたがって、出雲行きの待合室に行きました。
すると、すぐ前のベンチに座っていらっしゃる老夫婦の会話が聞こえてきます。
「おい、こがあな土産でええだか?」(ねぇ、こんなお土産でいいだろうか?)
「世話ないけぇ、心配しんさんな」 (大丈夫ですよ。心配いりません)
という石見弁です。
そのまた向こうでは「あげだ、こげだ」(←あんな、こんな)と出雲弁のやり取りです。
なんだか、私は急にホッとしました。まだ島根に着いたわけでもなく、東京にいるのに、ふるさとに帰ったように気楽になりました。
「そうか、ここにいる人はみんな、私と同じ島根に向かう人たちなんだ。」
そう思うと私はとても、うれしくなりました。
同じ行き先を持つこと、同じ未来を持ち、同じ方向を向いている人の中にいるということは、とても心安らぐものですね。
人生もまた一人旅。しかし、お念仏を申すものには浄土という同じ未来、同じ行き先をもつ仲間があります。
それは、同じ便の飛行機のように同時に到着はしませんが、順番は違ってもお念仏の世界には必ずまた遇える御浄土があります。一足先についた親や兄弟がわたしを待っていてくれます。
だから、お浄土への旅を見送るときは「さようなら」でなく、「じゃあまたね」なのです。「やがて 私も参ります」 です。
見送られる側も「ひと足 先に行くけど、待ってるよ。また会おうね」
です。
東京にいながらにして、出雲へ着いたように安らぎがあるように、お念仏申す人生は、この世にいのちを恵まれたまま、浄土に安んじて生き抜くことができるのではないかと味わいました。