ひらがな法話hirahou
どうせ 死ぬのだから
まだ、わが家の次男が小学生のころのことでした。
乱雑に汚れている子ども部屋を片付けるように言ったところ、
「どうせ すぐ汚れるんだから、片付けなくていいでしょ!」
と口ごたえをしました。
私は、父親としてそのまま引き下がる訳にはいかず、
「それなら、どうせ お腹がすくのだから、もう ご飯を食べるなっ!」
と応酬しました。
でも、何だか これでは理屈としては通っても、子どもには何も伝わっていないのではないかと悩んでしまいました。
なぜなら、僕の言葉は 「片付けないこと」を否定していますが、「片付けること」の意味を答えていないからです。
「どうせ死ぬのだから、適当に生きればいい…」という問いに対して
「それなら 今すぐ 死ねばいい。」と答えたことと同じです。
そんな折、先日、当寺のご法座に来られた講師先生から 江戸中期の俳諧師・滝瓢水(たきのひょうすい)の句の味わいを聞かせていただきました。
それは こんなお話でした。
***********
その昔、既に俳諧での名声を馳せていた瓢水の庵を一人の禅僧が入門を請いに 訪ねました。
しかし、そこには「風邪をひいたので、隣村まで薬を買いに行って留守をしている」という置き手紙がありました。
「生死を越えて、悟りを開いたと言われる瓢水だと聞いてここまで来たのだが、風邪をひいたぐらいで薬を求めにいくほど、死を恐れて、生に未練をもつとは… 教えを聞くほどの師ではない」
と言い放ち、禅僧はそのまま帰ってしまいました。
やがて、隣村から帰ってきた瓢水はその話を聞いて、
「まだ、すぐ近くにいるでしょう。どうかこれをそのお方に渡してください」
と言って人に1枚の短冊を手渡します。
それを読んだ禅僧は、自分の未熟さを恥じ入り、慌てて再び瓢水のもと訪れて深々と頭を下げた…といいます。
その短冊に書かれていたのが、次の一句です。
浜までは 海女(あま)も蓑(みの)着る 時雨(しぐれ)かな
以前、この句を初めて知ったころは、すぐ水に入って濡れるのに、浜まで蓑を着る女心の中にこっけいさを見出し、海女たち揶揄した句だと思っていました。
しかし、この句は、海女たちの、どうせ海水で全身濡れるのかもしれないが、せめて浜までは 時雨で身体を冷やさぬように蓑を着て、わが身をおもいやる姿が 詠われていたのでした。
どうせ 死ぬいのちだから、粗末にしてよいのではありません。
せめて、いのちが終るその時まで、生かされているわが身体を大切にしていきたい。
必ず終るいのちなればこそ、今生の縁尽きて力なくして「いのち終るときまで」をおろそかにしてはならないと示してくださる句でした。
「どうせ お腹がすくのだから、ご飯を食べない」
のでは ありません。
「そうだからこそ、一食のひと口を味わって 大切にいただく」
ことが大事なのでした。
「どうせ」死ぬいのち…。
だけど、それならばこそ尚更、
「せめて」死ぬまで(いのちある間)を大切に生きる。
尊いことを 教えていただきました。