ひらがな法話hirahou
ほんとう の やさしさ
島田洋七のベストセラー「佐賀のがばいばあちゃん」という本の中に、昭和30年代の運動会の日のできごとが書いてありました。
当時の運動会といえば、重箱にご馳走をつめて 家中が学校に駆けつける華やかで特別な日です。
しかし、その楽しいはずの運動会でも、洋七少年の家族は誰も来ません。
おばあちゃんと二人で貧しい生活をしている洋七の弁当も、いつもと同じ梅干と生姜がだけが入ったものでした。
事情を知っている友だちは、自分の家族といっしょにご馳走を食べようと誘いますが、洋七はそれを断ります。
友だちとその家族に囲まれながらご馳走を食べても、余計に淋しいものですから。
そして、賑やかな校庭を避けて 教室で一人こっそりと弁当を食べようとしたその時、担任の先生が やってきて「自分はお腹が痛いので、おまえの梅干の弁当と替えてくれ」と言います(もちろん仮病です)。
先生の見事な弁当と交換した洋七は、今まで食べたこともないようなエビフライやウィンナの入ったおいしい弁当を食べることができました。
その次の年も、担任が変わったそのまた次の年の運動会でも、担任は「お腹がいたくなった」 と言って来ては 洋七の梅干弁当と先生の豪華なお弁当と交換するように言ってきました。
洋七からそのことを聞かされた おばあちゃんは、本当の優しさとは、他人に気づかれずに届けること だと 教えました。
もし、先生の中に 「かわいそうだから」、「気の毒だから」…という同情や哀れみが 見えたら、もう洋七は 食べなかったでしょう。
だから、わざとお腹が痛いふりをして、その思いやりが 洋七に分からないようにして 洋七にご馳走を食べさせたのです。
親と別れて いつも貧しい暮らしの洋七 に「せめて年に一度」だけでも美味しいものを食べさせてやれた…… それだけで 先生は、もう満足なのです。
洋七が 先生の思いやりに気づいて 喜んだり、お礼を言ったりすることは求めていません。
ここまで読み進めて、私は恥ずかしくなりました。
私も家族や周りの人に ちょっとした親切や優しさを届けることがあります。
しかし、それは「気づかれないように」 ではなく、早く気づいて 御礼を言ってほしいのです。
本当の優しさは他人に気づかれず届けられるとすれば、相手にわかる(気づかれる)ような優しさは ホンモノではないということになります。
そして、本当の優しさが相手に気づかれないように届けられているとするならば 、私は今 すでに、自分で気づかないままに 大きな願いや思いやりの中にすでに包まれていた…というでもあります。。
親のまごころや、仏さまの慈悲のお心もまた 私の気づかぬままに、すでに届けられ、この私は今、その真実の願い・思いの中に包まれていたのでした。