住職ノートnote
人生劇場の舞台裏
浄土のことを、もう一つのたとえとして、「人生劇場の舞台裏」と話をきいたことがあります。舞台裏…これは、ふうつは見ることはできません。見えるのは表舞台、見えないから舞台裏です。
そんな舞台裏をわざわざ見せてくれる場所があります。京都・東映太秦映画村です。ここでは水戸黄門、銭形平次、大岡越前などの時代劇の撮影が行われ、そのセットなどが常設展示されています。あの大岡裁きのお白州(庭の法廷)などもあります。
そこで、水戸黄門の撮影現場に出合った人が、「なんだか、妙なものを見た」と言っていました。それは、夏の暑い日盛りの中、水戸黄門と助さん角さん、そして悪代官とその一味の殺陣(たて)のシーンです。メイクアップばっちりの迫真の演技でした。
ここからが問題です。本番終了後、斬り殺された悪代官が立ち上がって(ここまでは、芝居だから まだワカル)、黄門さまのところへ駆け寄りました。そして
悪代官「黄門さん、暑かったですねぇ。あっちでビールでも、どうです?」
黄門さま「おー、それは結構ですな。あっはっは!」
そんな会話を交わしながら、悪代官と黄門さまがチョンマゲ並べて楽しそうに歩いていったと言うのです。なんとも奇妙な光景だったそうです。
う~ん、これぞ舞台裏の真骨頂。きっと、二人でビールを注ぎ合いながら、こんな会話をしているのでは…。
悪代官「いやぁ、暑い中お疲れさんでした。」
黄門様「それにしても、アナタも気の毒な役ですなぁ。だって、日本中のおじいちゃん・おばあちゃんたちは、みんなアナタのことを この憎らしい悪代官め、はやく死んでしまえ…ぐらいに思ってるのですよ。」
悪代官「いえいえ、それが私の役割ですから…。」
黄門様「それにしても お気の毒に…」
悪代官「じゃ、今度から悪代官を止めて、慈悲深い名代官をやってみましょうか。でも、その代わり、黄門様の印籠(紋所)を出す場面はありませんよ。
いいですか、私は憎まれるのが私の仕事。私が憎らしくなればなるほど、黄門様の印籠が、光輝いて有難くなるのです。だから、これでいいのです。何はともあれ、暑い中、お疲れさまでした。」
黄門様「はい。ほんとにお疲れさまでした。」
こんなふうに、舞台裏とは、善玉と悪玉が共に「お疲れさん」とねぎらい合える世界です。
どうでしょう、今、私たちは人生劇場の表舞台に立っています。
主役は?もちろん私です。私の人生では。
そんな中、助さん・角さんのように支えて下さる人もいます。うっかり八兵衛のような楽しい人やカッコいい風車の弥七みたいな人もいます。それから、悪代官も…。
そして、私の「悪代官」とも、やがて「舞台裏」で遇(あ)うとき、黄門さんと悪代官の会話のように ねぎらえ合える…そう思うと悪代官さんにも 「損な役回りを演じてくれて ありがとう」と言えます。
人生劇場では、無駄な配役の人など一人もありません。通行人の役がいなければ、街になりません。東京という街も、一千万人以上の人たちが、東京を演じて下さっています。私がいつ行ってもいいように、3分に1本の電車を走らせてくれています。
そう思えば、満員電車の苦痛も少し和らぎます。もし、これがロケだったら、どうでしょう。同じ時間、同じ電車、同じ区間に乗ってくれるエキストラを雇うだけでも莫大な経費です。
同じように、自分も他の人の人生劇場の中に いろんな役回りで登場しているわけです。わたしも、門徒さんの前では「西楽寺の住職」として、家族の前では「父親」だったり、「夫」の役として登場してい ます。そして やがて病人の役も引き受け、先に死んでゆく役もつとめさせていただくことでしょう。
しかし、どんな役をつとめようとも、「長々、人生お疲れさん。その節はお世話になりました。またあえて よかったね」と言える世界がある。それが、人生劇場の舞台裏・いのちのふるさと =お浄土なのでしょう。