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住職ノートnote

サルの反省


ひと昔前に 「反省だけなら サルでもできる」というコマーシャル・コピーがありました。

でも、「反省」には限界があります。なぜなら、どれほど自分で自分を見つめたとしても、その「見つめている自分」は見えていない…からでです。

それはちょうど、何でも切れる刀があったとしても、その刀自身は切ることができないのと同じです。

つまり、「見つめている自分」を置き去りして自分を見るから、どうしても 反省は「甘く」なります。だから、たとえ「わるかった」と反省しても、

「あの時は、仕方なかった」
「今は悪くない」
「反省しないヤツよりマシだ」

というように、「見つめる自分」が、知らず知らずに「見つめられる自分」をどんどん弁解・擁護していきます。

しかし、私たち浄土真宗はそんな自己内省的なものではありません。
自分で自分を見るのではなく、絶対に間違いのない物差し(存在)=「南無阿弥陀仏」=をとおして、掛け値なし(等身大)の、本当の自分を知らされるのです。
もっというなら、自分も知らなかった「本当の自分」との出会いでしょう。

たとえば、自分の目では見ることのできない体(肺)の中も、レントゲンを使えば、映し出すことができるように、「間違いのない眼」で、自分の心の奥底まで あぶり出されたらどうでしょう?それでも、自分は 「善い人間」でいられるでしょうか。

真実のまなざしを通して、本当の自分に出会ったとき、
「私は他人に迷惑をかけないで生きてきた」
「世界で自分ほど苦しい(不幸せな)者はいない」
「私は、他人のために 善行をしたのであって 自分のためではない」
とはいえなくなるような気がします。