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住職ノートnote

仏さまのおっぱい


■ 赤ちゃんと おっぱい
赤ちゃんは、まだ歯もはえてなければ、消化器官も未熟です。
ですから、赤ちゃんに いくら栄養満点だからといって、ボリュームたっぷりの普通の肉・魚・野菜を食べさせる親はありません。もし、生の刺身などを赤ちゃんに食べさせたなら、それこそ生命に危険を及ぼす事態になるかもしれません。

そこで母親は、噛むことも消化することもできない赤ちゃんの代わりに、自ら食物を食べて消化して、その栄養を ただ飲むばかりの おっぱい に仕上げます。
同様に、仏さまから見れば赤ちゃん同然の私のために、阿弥陀さまは、ナモアミダブツという おっぱい を 仕上げて下さいました。

どんなに頑張っても、心からの善行や純粋な修行ができない私には、仏になるための功徳(栄養)を満たすことは到底できません。
それならば…と 阿弥陀さまは、赤ちゃんの代わりに食物を食べた母親のように、わたしの代わりに修行を励み善根を積み、その功徳をナモアミダブツという称えるだけの名前(名号)に仕上げて届けて下さいました。

■ おっぱい の 3つの徳
さて、 おっぱい (母乳)には 次のような3つの優れた性質(功徳)があると、お説教で聞いたことがあります。 ※(註)

寒暑同味(かんしょどうみ):周りが暑かろうが寒かろうが、周りによって変わることなく、同じ味である(どんな条件のもとでも平等のすくい)
転苦成甘(てんくじょうかん):母親が苦いものを食べてたとしても、母乳は飲みやすい甘さである(行うことが困難な難行苦行の功徳を 修めやすい念仏に…)
時処不嫌(じしょふけん):子供のお腹が空いたときに乳房が張る(いつでも、どこでも ちゃんと間に合う)

こんなふうに、赤ちゃんが成長するのに必要な栄養のすべてが、赤ちゃんにとって最も取り入れやすい状態(飲むばかり)となって用意されたのが母乳です。
私がすくわれる(仏になる)ために必要な功徳のすべてが、私にとって最も行じやすい名(念仏)となって届けてられるのです。

■むずかゆがる私
それほどの飲むばかりの おっぱい ですが、時として赤ちゃんはむずかゆがってなかなか乳房の方を向かなかったりします。
私たちも「忙しい、忙しい」と言っては、なかなか仏さまの方を向けません。

すると母親は、「こっちだよ」と赤ちゃんの顎に手を添えて乳房の方を向かせます。
私たちを向かせるのは、亡き親の命日やお寺からの法座案内でしょう。年回法要は、兄弟親族までいっしょに「こっち」を向かせて下さるご縁ということでしょう。

子供が大きくなるのに必要な栄養のすべてが調(ととの)えられた おっぱい は、親の手元にあるときから子どものものです。そしてその おっぱい の成分分析もいらぬこと。ただただ飲むばかりです。

私が仏となる(すくわれる)ための功徳のすべてがおさまった南無阿弥陀仏も、阿弥陀さまの手元にあるときから私のもの、南無とは阿弥陀とは…と詮索するまえにまずは ナモアミダブツと 口にお念仏を称えさせてもらいましょう。

※註 3つの功徳 … 本文中の3つとは異なり、寒暑同暖(かんしょどうだん) ・貴賤同味(きせんどうみ)・転苦成甘(てんくじょうかん)とお話なさる方もあります。