住職ノートnote
何も告げず
熊本県の佐々木高彰 先生のお話をDVDで聴聞しました。
(このサイトと相互リンク 河久保同行の部屋のJINEI さんから頂戴しました=謝)
その中で、善導大師の
「諸仏の大悲は苦ある人においてす」
という言葉が次のように味わってありました。
悲しみの凡夫に 罪 告げてどうしよう!
生き方を示して、どうしよう!
もう、生き方 告げて片付く話じゃない。
罪告げて片付く話じゃない、とご覧になった。
法蔵菩薩は、罪も告げず、生き方も告げず、
「ただひたすら すくう」という救いの普遍にお立ちになった。
…と。
これを先生の声のまま聞かせていただた時、仏さまの慈悲がこのわが身に引き寄せて至り届けて下さっていることをしみじみと感じました。
佐々木先生はまた、今の時代は みんな「自分が 評論家になっている」といわれます。
評論家は、自分のことは 棚に上げて 他人のことを
「あれはダメ、これダメ。こうすりゃいい、ああしたらいい…」
と好きなことをいいます。
つまり、評論家は
「だめじゃないか!」と 相手に罪を告げ、
「しっかりしなさい」と生き方を告げることでもあります。
しかし、阿弥陀さまは
「だめじゃないか!」 罪を告げることはありません。
「がんばれ!」と生き方を示されるこもありません。
「強く賢く立派になれ」とは言われません。
強く賢く立派に生きねばならぬと願いながらも、弱く愚かにしか生きられず、ただ涙するもののことを 愛しくご覧になっているのですから。
人は みなそれぞれ 言うに言われぬ、語るに語れない悲しみを秘めています。そっとしておいてほしいこと、触れてほしくない苦しみをもっています。
「どうしたの?」「何事ですか」と 心配されても 言いたくない 聞かれたくないような辛さ 悲しみを抱えて生きています。
だからこそ 阿弥陀さまは何も問われません。私に 罪を告げることはされません。がんばれと も おっしゃらない。生き方を告げるこもありません。
頑張れないままの私に ただ そっと寄り添って 心配し、抱き包んでいてくださっているのであります。
不思議なものです。「もう頑張らなくてもいい、そのままでいいんだよ。」
といわれると、「このままじゃ、いけない。」もう少し頑張れそうなきになる私です。
最後にもう一度 冒頭の言葉を書きます。声に出して 読んでみてください。
悲しみの凡夫に 罪 告げてどうしよう!
生き方を示して、どうしよう!
もう、生き方 告げて片付く話じゃない。
罪告げて片付く話じゃない、とご覧になった。
罪も告げず、生き方も告げず、
「ただひたすら すくう」という救いの普遍にお
立ちになった。
ナモアミダブツ。