住職ノートnote
「よりそう」 ということ
東日本大震災から1年が過ぎ、季節はまた桜の咲く頃となった。
昨年、ご本山の親鸞聖人750回大遠忌法要にお参りしたときに「被災された方々の悲しみに寄り添って」という言葉をしばしば耳にした。
では、その「寄り添う」 とは、どういうことだろう。
いつも有難く読ませていただくブログ 『住職つれづれ日記』 の中で、
筆者の松月博宣先生は
寄り添う とは、 「忘れない」ということであり、「見捨てない」ということだ
と示してくださった。
そこで、僕なりに その言葉を手掛かりに味わってみた。
●寄り添うとは「忘れないこと」
あの大震災の直後は テレビ・新聞など 一日中 その状況を伝えていた。
ところが、ひと月がすぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎた今はもう、一日の間で 東日本大震災についての報道を全く見ずじまいで 終わることもある。
月日の経過とともに 知らず知らずのうちに 被災地に対する私たちの思いは薄れいき、目先のことばかりに追われて、あの大惨事ことを忘れていたりする。
これでは、寄り添うことはできない。だから、「忘れない」ということを 忘れてはならない。
●寄り添うとは 「見捨てないこと」
被災地の惨状が報道されたとき、「何かできることはないか」と…支援の活動が広がっていったことは 素晴らしいことだ。
ところが、一年が過ぎた今、心のどこかで 自分勝手に区切りをつけていることがありはしないか。
「もう、 それなりの義援金は 送った」
「救援物資も かなり 届けた」
「ボランティアも 2回行った」
「もう支援したから」 と自分で 区切りをつけてしまうことは、「見捨てる」ことに他ならない。復興への道は これから先、10年とも15年といわれる。現在は まだその一歩が始まったばかり。
だから、「見捨てない」ことが 「寄り添う」こと。
思えば、忘れることなく、見捨てることなく、 寄り添う…とは如来さまのおはたらき そのもののことだった。
私が 他所を向いて忘れている時も 忘れることなく私に寄り添っていて下さる 如来さま。
「こんな自分は いやだ」と自分で自分を見捨ててしまうときも如来さまは 決して 私を 見捨てることなく 寄り添っていて下さる。
そんな如来さまに寄り添われながら、如来さまのまねごとをして 被災された方々に 少しでも寄り添っていけたらと 思う。