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お盆bon

お盆のいわれ(由来)

「仏説盂蘭盆経」(ぶっせつ・うらぼんきょう)というお経に、こんなお話があります。

お釈迦さまの十大弟子のひとり、目連尊者は神通力を得て、他の境界(世界)を見る力がありました。そこで、今は亡き母親がどこにいるのか 神通力を使って捜しました。すると 母親は、仏の国ではなく、地獄のひとつ手前の餓鬼道に落ちていました。

餓鬼道では、生前の行いの報いとして、もの食べたくても食べられず、飲みたくても飲むこともできません。ですから、体はやせ細り、骨と皮ばかりで目だけが飛び出すようにギョロっとしています。そんな目を背けたくなるような姿で、母親は「お腹が空いた」と訴えます。

目連 尊者は驚き、悲しんで、急いで食べ物を母親に届けます。しかし母親が、その食べ物を口に入れようとしても、その直前にみんな火となって燃えてしまい、どう しても食べることが出来ません。目の前に食べ物がありながら、それを食べる事ができない…(餓鬼道ではこうなるのです)

注= 食べ物が燃えたということは、人は物では 救えない…ということを示しているのでしょう。人の心を開く(救う)のは、物ではなく、法(真理)だということでしょう。

「どうして、あの優しい母さんが餓鬼に…」目連尊者は神通力で、その理由を知りました。

母親は我が子である目連に食物を与えるために、他の人には施すことを惜しみ、(逆にいえば、他の人のものをむさぼり)、ひたすらわが子(目連)への愛を注いだためでした。

注=親というのものは、子どもを育てるためには少しでもわが子に、わが子にと貪(むさぼ)ってしまいます。子ども(私)を一人前に育てるために、親は我が身を餓鬼道に堕とすほどの罪を重ねて下さったということでしょう。

ちょうど、「親戚中の子どもたち が集まった時、切り分けたスイカを配るのに、やはり自分の子に少しでも厚みのあるスイカを配った(均等に切ったことになっているが)」と話されたあるお母 さんの言葉を思い出します。「よその子のスイカを1ミリ(厚さ)でも多く、わが子に回したい(=むさぼる)のが親なんです」と続けていわれました。

つまり、子どものためなら、自分は餓鬼に落ちても悔いはない…という親心が、このお経のいいたいところじゃないかと思います。

さて、目連尊者は泣きわめきながら、お釈迦様のもとにかけつけ、どうしたら母親を餓鬼道から救う事ができるか、たずねます。

お釈迦様は答えられます。
「七月十五日の『自恣』の日に、いろんな食べ物を用意して、多くの僧たちに施しなさい」と。

※「自恣」の日とは、その日までの3ヶ月間(ちょうど雨季のため)虫や草木の息吹を踏みにじる(殺生する)ことを避けるため、托鉢などの外出をしないしきたりの最終日です。(旧暦で8月15日になります)。ですから、自恣の日には、それまで洞窟や森影で勉強会をしていたお坊さんたちが、一斉に外に出て来られます。餓鬼になるほど貪ったことを省みて、反対に施しを勧められたのでしょうか。

そこで、目連尊者はお釈迦様にいわれた通りにすると、母親は、餓鬼道の苦しみから逃れることができたとあります。

「お母さんが救われた!」とよろこびのあまりに手を挙げ足を振って舞い喜んだのが盆踊りの起源…ということまでは、お経にはありません(あしからず)

お盆のこころ

お盆は詳しくは盂蘭盆(うらぼん)といいます。

「うらぼん」とは、インドのウランバーナという言葉を音写したもので、「逆さに吊るされたような苦しみ(倒懸苦=とうけんく)を救う」と言う意味です。
倒懸苦といういうのは、自分が逆さ吊りですから、周りも逆さまに見てしまいます。

たとえば、

●必ず終わりがくる いのちも、いつまでもあると思う
●周りからガマンして(許して)もらっているのに、自分が回りをガマンして(許して)やっていると考える
●ちょっと善いことをしても 、「ありがとう」とお礼の言葉がなければ 腹を立てるのに、自分は善人で、相手を悪い人としてしまう

こんな逆さま状態は、確かに「苦」です。

挙げ句の果てに、お浄土(仏の国)に生まれたご先祖まで、迷える亡者扱いして、供養(心配)しようとします。
これも逆さまです。ご先祖さまの方が、欲こころ一杯の私を心配(供養)して下さっているのです。

ですから、
「お盆中は地獄の釜のフタが空いてご先祖さまが帰ってくる…」などという人がいますが、考えてみれば、これは浄土へ参られた先祖を地獄の住人扱いしているわけで、全く失礼なことといえます。

阿弥陀さまにすくわれ、浄土へ生まれたものは、いつでも、どこでもお念仏の中に、帰ってきてくださいます。
盆にだけに帰るというようなご先祖さまじゃ、ありません。

お盆になったら、帰ってきて、お盆がすむと行っちゃうのはご先祖さまではなく、都会に住む親戚の話です。
そういう意味でも、私たち浄土真宗門徒には、迎え火も送り火もありません。

あえて、「迎える」というのなら、それは平素忙しい忙しいと生活に明け暮れて、いのちの行方など考えることなく、親を思うこともない <私自身の中>にお盆を「迎える」ということになるでしょう。

そして、8月16日が過ぎると、また生業(なりわい)に振り回される忙しい日々に、私が「送ら」れていくわけでしょう。
つまり、お盆で迎えたり、送ったりするのは、ご先祖ではなく、私自身が、ご先祖を通して、いのちの行方を考える「ひととき」なのでしょう。

急がなければならないことを後回しにして、忙しいと明け暮れする私の逆さま状態に気付かせてもらうのが、まさに盂蘭盆(ウランバーナ)「倒懸苦=とうけんく」を救う」ということになるのでは…。

こんなふうに、私は、お盆を味合わせてもらっています。