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放言御免hougen-gomen

親鸞聖人と親鸞


私は、基本的に勉強はキライである。
勉強というよりも、アカデミックな雰囲気が苦手だ。
理屈よりも感覚。理論より現実を好む。

したがって、恥ずかしながら、浄土真宗を学問的に捉える類(教学)の本は、ほとんど読まない。法話とか暮らしの中の味わいに目が行く。

どこがその境界かといえば、基本的に親鸞聖人のことを「親鸞」と呼び捨てするような本は、まず読まない。そういう著者は、「親鸞聖人のみ教え」とは言わない。「親鸞の思想・哲学」という言い方をする。

前書きだけで、読む気をなくした本もある。
「ここに、故・○○○○先生の遺徳を偲び、親鸞と蓮如の思想について各位の論文を…」
というような一節の前書きだった。

自分の恩師(?)には、○○先生と敬称を付け、親鸞聖人と蓮如上人は、呼び捨てである。そこには、研究対象としての親鸞や蓮如しかないのであろう。いのちを懸けて、この私に念仏の教えを伝えてくださった方々への敬いのこころは見られない。

文字も満足に読めなかった言われる 讃岐の庄松同行は、蓮如上人の御文章(お手紙)に何が書いてあるかと問われたとき、
「庄松をたすける。庄松をたすけると書いてある」と答えたという。

経典の一言一句の解釈も大切であろうが、一言一句の中に込められた大きなこころをたずねていきたいと思う。

今回は、ちょっと浄土真宗初心者には意味不明かも。だが、隠しコンテンツにつき、何卒ご海容のほど…。放言御免。