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四十九日のいわれ49iware

はじめに

このページでは、まず儒教思想の入った十王経(偽経)にもとづく、世間的な四十九日をご紹介しています。 当然、念仏の道を歩む私たちの四十九日の受け止め方 とは異なりますので、ご注意下さい。

したがって、途中で終わって誤解のないように 「私たちの四十九日」まで 読んで下さることを念願します。
また、この先を読み進められる前に、人生の栞 「うそ」といえば、エンマさま を ご覧下さることをお勧めします。

世間でいう 四十九日(由来)

古代インドでは人間は輪廻転生すると考えられていました。それを誕生の瞬間が生有(しょうう)、生きている期間が本有(ほんう)、死の瞬間が死有(しう)、死んでから次の生を得るまでの期間を中有(ちゅうう)と呼び、中有は四十九日間といわれます。

中有は、中陰ともいい、満中陰とは、この中陰の期間が満了する四十九日目ということになります。そして、この中有の考えと中国の道教の思想が混じり合って「十王経」(偽経といわれる)が成立します。

その中で、死者は7日ごと、百ヶ日、一周忌、三回忌に十王の審判を受け、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道のいずれか決定されると説きます。

要するに、四十九日の間に死者の行き先を決める裁判が開かれるというわけです。第1審 地方裁判所に相当するのが、「初七日」、高等裁判所を経て、最高裁判決が 下されるのが 「四十九日」ということです。居並ぶ裁判官の中で いちばん有名なのが閻魔王で、五七日(三十五日)に登場します。

その裁判は、この世の法廷と同様の手続きがとられ、いきなり判決が下されることはありません。まずは、罪状認否から始まります。
そこでは閻魔王が、エンマ帳に記載された行状を糺(ただ)します。閻魔王の前では、いっさいの罪を隠すことはできません。

いくら「記憶にございません」で通しても、再現ビデオ付超高精度ウソ発見器(浄はり鏡)で すべて暴かれます。それも 身体だけでなく、言葉や心の中で犯した罪まで問われるのですから、たまりません。「被告人」は大ピンチです。

そこで、遺族が裁判の日に、被告人支援のためにお経を読んで「情状酌量」を願う…というのが七日ごとの仏事になります。そして最高裁判決の日(四十九日)には、親戚まで招いて大応援団(法事)を組むわけです。

ここまでが、一般的にいわれる四十九日です

この後、百カ日・一周忌・三回忌と再審請求して成仏を目指すことができるので、、四十九日までの七回と合わせて 十回ほど、裁判官(十王)の前に立つことあるわけです。

ここまでが 「十王経」で説かれる四十九日です。
どうぞ ココで終わらず、次↓を読み進めて下さい

私たちの四十九日 (ココからが 浄土真宗)

阿弥陀如来さまは、この私をすくうために、すくいの対象である私を 事細かに見尽くされました。それは、私自身さえも気づくことも、知ることもなかった、「ほんとうの私」です。

そして、その「ほんとう私の調査結果」は、絶望的なものでした。「ちょっと善いことをしても、相手から認められないと腹を立て、あけても暮れても損得ばかり。努力(修行)したらしたで、それを踏み台にして すぐ威張る…」閻魔王の判決は、間違いなく「地獄」。

どれほど遺族が応援(追善供養)をしても、有能な弁護人(仏さま)をつけても、とても無罪(すくわれること)はありえません。見事なほどに、どうしようもない結果です。しかし、そんなことで投げ出すような阿弥陀さまではありません。そんなすくわれようのない私をすくう方法を阿弥陀さまは、とてつもない長い時間、頭を抱え、考え抜かれました。(お経には 五劫思惟 とあります)

そして、その結論。
朝から晩まで地獄の種をまく私をすくうのに、裁判に臨んだら到底 勝ち目はない。それならば、裁判の前に私をすくいとってしまおう。死んでからでは間に合わない。生きている今、この時に おさめ取ってしまおう・・・と。

そのために、自ら地獄へ堕ちるしかない私の罪や煩悩をそのまま、逆に浄土へ生まれるエネルギーに転換させるという、あたかも逆転サヨナラ満塁ホームランのような、南無阿弥陀仏(お念仏)を成就させて、この私に届けて下さったのです。

ですから、ナモアミダブツ…とお念仏する者には、七日ごとの裁判は、無縁です。死者の行き先を心配をして、追善のための仏事も意味がありません。

私たちの四十九日 の 受け止め方

このように、閻魔王の法廷に立つことなく、浄土へ生まれさせていただく私たちには、四十九日の仏事の意義もまた 異なってきます。

先立たれた方は、阿弥陀さまの浄土へ往生され、私を導くはたらきとして、私が地獄に迷うことないように心配して下さっています。ですから、こちらから故人の追善(心配・応援)のため仏事をするのではありません。
仏事のイロハ 仏事のこころ 「仏事は亡き方のため?」をご覧下さい)

七日ごとの仏事は、「本来ならば閻魔王の前で裁かれている日であった…もし、今 自分が法廷に臨んだら、どんな判決がでるだろう…」と、自分のあり様をたずね、これからのいのちの行方を聞いていく…。それが、念仏の道を歩む者の四十九日の意義ではないでしょうか。

四十九日というのは、亡き方が遺族を心配して「お念仏にあっておくれ」と、我がいのちを懸けて用意して下さったご縁と受け止めたいものです。