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スッタ問答(なんでも Q&A)stmdu

住職という立場上、日々の生活やこのHPの中で、門徒さんやいろんな方から、さまざまなご質問をいただくことがあります。そんな おたずねに 「私なりに」お答えしたことを掲載させていただきました。

▼ 質問した人
はからずも、西楽寺住職と縁をもってしまった心優しい門徒さん、もしくは、たまたまこのHPを開いてしまった善良な人たち
▼ 回答した人
浄土真宗の教えの学問(教学)を、究めた学者でもなければ、全国を駆け回る布教使でもない、ただの田舎のお寺の住職
▼ 注意事項
回答者の性質上、このページの内容は浄土真宗の教科書とは、少しズレがあることが考えられます。詳しくは、阿弥陀さまに直接おたずねください。

■ 結婚って何?

【問い】
どーして、結婚なんてするのでしょう? まさか、ウエディングドレスを着るためや子孫繁栄のためじゃないでしょう。結婚の意味って何でしょう?

【答え】
昔、読んだ本に たしかギリシア神話として、次のような話がありました(記憶は定かではないのですが…)

もともと 人間は 男女二人が背中合わせで一つでした。

でも、それでは、とても不自由なので、神様が背中から分けて二人して下さった。そこで、分けられた二人は、背中のくっついていた「もとの相手」を捜し求めていっしょになる(結婚する)というのです。(別人を勘違いしていっしょになると離婚する…とまでは ありませんでしたが…)

ちなみに その組合せの中には 男・女のほか、男・男、女・女という、背中合わせもあったので、現在でいう同性愛もある…。

そんな内容だったと思います。

で、私は思うのですが、人間は基本的に一人で「完全」ではないから、二人で 欠けているところを補い合って 「一人前」になる…、じゃないかと。

ところが、現代はその欠けている部分を、様々な手段で補うことができます。(もちろんそれは 物質的補給ですが)

そして、メンタルな部分は教育や情報で補てんして、「一人前」になった気になりやすい、つまり、「別に結婚しなくても…」、となるんじゃないかと思います。

何も、結婚しない人がみんな、自分勝手に「一人前」だとうぬぼれている、とまでは、いいません。「立派な人」はたくさんいると思います。でも、自分の欠けている部分が、結婚以外で解決できると考えていらっしゃる(いや、実際に「解決」してる)のではないかと 思います。

宗教だって、そうでしょう。「俺 ひとりで 生きている…。別に神・仏なんか…」という方には、くだらない儀礼的・迷信的なものにしか映らないでしょう。

「ひとりでは生きていけない(いろんな意味で)」

逆を言えば

「この人(仏)といっしょなら、生きていける」

そして、そんな出会いがしたい、と考えるかどうか、じゃないかと思います。

最後に、既婚者として 月並みな言い方ですが、二人でいれば 楽しみは倍以上になりますし、苦しみは 半分以下になります。もちろん、ひとり気ままでいれば 感じなくてすむ苦しみも味合うことになるでしょうが、それを(相手)通して また「新しい自分」、自分一人では 「気付かなかった自分」に出会えますヨ。

その形として 「結婚」があるのだと私は味わっています。

■ 生かされて

【問い】
病院で生命維持装置で命をつないでいる友人がいます。
彼は生きている。その彼も阿弥陀様によって生かされていると言えるのでしょうか。「宗教的な生きると医学的な生きるは違うのでは」と思うのですが…。

【答え】
う、うっ、 とても むずかしい 問題ですね。このような 問いに対して 適当な回答をできるだけの力を持ち合わせていませんが、私なりに 考えてみました。「宗教的な生きると医学的な生きるは違うのでは…」と言われますが、私もそうだと思います。

何かの本で、我々の価値基準を次の2つに分けてあるのを読んだことがありますまず、「有用価値」つまり、役に立つか、立たないかというレベルの価値観。

道具や家電製品のように、役に立つときは使うけれど、役に立たなくなれば捨てるという価値観です。これを人間にまで当てはめると、 病人や老人には 価値がないことになります。

次に、「存在価値」。役に立つとか、立たないとかではなく、「そこに いてくれる(ある)だけでいい」という、存在そのものに価値を見出す価値観です。

私ごとで恐縮ですが、 父が存命中は、「父親というものは 有難いものだ」と思っていました。というのも、忙しい時には行事の準備やお参りを父が代わってくれていたからでした。でも、これは有用価値での話。

ところが、父が亡くなってから、つくづく思いました。

「何もしてくれなくてもいい、振り返った時 そこにいてくれるだけで、どれだけ 心安らいだことか。そこにいてくれるだけでいい…。」と。これが 存在価値でしょう。

それから、彼は…病院で生命維持装置で命をつないでいるということですが、生命維持装置ということなら、スキンダイビングの時の 酸素ボンベや宇宙船内の機内空気の調節機器だってそうでしょう?

もっといえば、だれだって みんな 無限の縁(植物の光合成や太陽の光も含めて)という「生命維持装置」につつまれて生かされているのだと思うのです

それから、その彼も阿弥陀様によって生かされていると言えるのだろうか。とありますが、何でも 「阿弥陀さま」で 片付けて(論じて)しまうのは、どうでしょう?

そして、「言えるかどうか」というのは、こっちの預り知らぬところで 阿弥陀さまの側の問題かと思います。

あえて 「阿弥陀さま」 という言葉をつかうとしたら、

有用価値ではなく、存在価値で私を引き受けてくださる「阿弥陀さまの願いの中に」 生かされている…というしかない。

こんなふうに、私は 受けとめさせてもらっています。

■ お念仏で 苦しみはなくなりますか?

【問い】
生きる上で避けて通れない苦しみを、苦しみと感じることなく問題を解決する手段として「南無阿弥陀仏」を称えるのだと思うのですが、どうも腑に落ちません。

【答え】
ご質問を読んでいて、まず、「手段」という言葉に引っかかってしまいました。

お念仏は 「手段」ではありません。少なくとも、生きる上で避けて通れない苦しみを、苦しみと感じるこがとなくなるための 「手段」 ではない と私は聞かせてただいています。

あえて手段という言葉を使うのなら、それは、「如来さまが この私をすくうための 手段」ということになるでしょう。

苦しみ、あえぐ この私に向けて 如来さまが

「ひとりじゃないよ、ここにいるよ」と心配し、呼びかけてくださる声が、私の口を通して 出てくださいます。それを お念仏と呼んでいるのだと思うのです

ですから、念仏したら、苦しみがなくなるのではありません。苦しみを苦しみのまま、引き受けられる、とでも 申しましょうか、今を、自分を、この場を 引き受けられるようになると思います。

※このおたずねを機縁に、住職ノート「アコヤ貝の涙」をアップさせていただきました。

■ 怨みのある人がいます。

【問い】
怨みのある人物がいるのですが、どうしても、その人のことは好きになれません。困っています。

【答え】
怨みのある人物が、「そこに」いるのではありません。その人物を怨んでいる 自分が「ここ」にいるのです。

ちょうど 禁煙をする人にとって、「タバコが吸えない」から苦しいのではないのです。

「タバコを吸いたいという思い」が満たされないから苦しいのです。

だって、タバコの嫌いな人は 吸わなくても苦しくありませんもの。タバコを吸う、吸わないという問題ではありません。

怨みのある人も、禁煙の場合も 結局、問題なのは 「この私」だったんですよね。

■ 素直に念仏を称えることができません

【問い】
いろんなことを考えてしまって、なかなか素直に念仏を称えることができません。
こんな私は、とても往生できませんね。

【答え】
とんでもない。ちゃんと心を込めてお念仏することができたなら、阿弥陀さまは、あなたを見放されるかもしれませんヨ

「素直に念仏を称えられない アナタ だから、ほうってはおけない」 と、 いつでも どこでも、あなたが気になってしかたない…。

そんなお方を 阿弥陀さま というんでしょう。

そして、なにより「素直に称えられない」とわが身の有りさまに気付いていらっしゃるアナタは、もう、すでに暗闇のなかで 自分が見えないのではなく、如来さまの光の中に つつまれているのだと思います。

■ 私の未来…

【問い】
占い師や人の未来をみる人たちをどこまで信用できると思いますか?
私はけっこう占いが好きなので、ついはまってしまうのです。他人に未来を託すなんてバカみたいでしょうが、不安の方が先にたってしまいます。
人の未来が見える人に、はまらないようにするにはどう考えたらよいのでしょうか。

【答え】
「未来を見る…」、ですか。知りたいですよね。どうなるのか。

でも、お釈迦さまにそのことを聞けば、自分がこの先 どうなっていくか 知りたければ、今 自分が何をしているかを見なさい。っておっしゃいますよ

つまり、運命のように はじめから 先のことが決っているのではないということです。受験するのに、合格するかどうか心配するより、今 勉強しているか、怠けているかを問題にしなさいっていう感じでしょうか。

そして、そこには 受験当日のコンディション(発熱・天候)や受験先の選択という「縁」も絡んできます。

その選択もまた、自分が選んだという「今」が、「先」につながっていくわけです。

〉私はけっこう占いが好きなので、ついはまってしまうのです
〉他人に未来を託すなんてバカみたいでしょう、

そんなことないです。人間なんて 弱いものです。右が左か 選択(選ぶ)する時に つい、占いなどが気になるのは よくわかります。

だっ て、右を選ぶということは、左を捨てるということですもの。この会社(学校)に入るということは、他の全ての会社(学校)を捨てるということ。一つを選び 取るということは そのまま 他を全部捨てるということです。だから、みんな 迷うのです。一度に二つを選ぶことのできないのが人生なのですから。

そんな時、占いなどで「右がいいよ!」というふうに 示されたら 安心します。

なぜでしょう。だって 右で失敗した時に、「あの占いは 当らない」と言い訳できますもの。

でも、いくら言い訳してごまかしても、その結果を引き受けなければならないのは、他でもない自分自身です。

さて、私たち浄土真宗の宗風には「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行なわず、占いなどの迷信にたよらない」とあります。

意外に思われるかもしれませんが、浄土真宗は、占いや迷信に振りまわされず、どんなことも 他人(外)のせいにしないで引き受けていく、力強い・積極的な道(教え)だといえます。

そこで、私は、阿弥陀さまからのメッセージ(ナモアミダブツ)を

1度しかない大切な人生を 占いなどで決めてしまう(ふりまわされる)のはもったいないよ。失敗したっていいじゃないか。失敗した人だけが出会える真実もあるよ。

つまずいたっていい。順調にいく人には見ることのできない 真実がみえるはず。あなたの人生を生きぬくことができるのは世界で たった一人、あなただけ。

他人の人生の代わりもできないし、同様に私の人生を代わってくれる人はいないのです。

だから、アナタ色の花をアナタなりにいのちいっぱい咲かせたらいい…。

「世界中で、一人くらい こんな生き方する人間がいたっていいじゃないか」と引き受けてごらん。どんなことがあっても、私はアナタのそばにいますよ。ナモアミダブツ。

といただいています。

その阿弥陀さまからのメッセージを「ナモアミダブツ」とお念仏の中に聞くとき、つまずいた石を踏み台にして、さらにステップアップできるのだと思うのです。

ということは、私が出会うことはすべて、喜びも苦しみも、人生の中で無駄なものは何一つないといえる世界が開けてくるのではないかと思います

そして、

〉占い師や人の未来をみる人たちをどこまで信用できると思いますか?

はい。少なくとも 占い師を信用する アナタの心は 信用できます。でも、占い師のいわれることは わかりません。

ちょうど、「この飛行機は 安全だ。絶対に墜落しない。」と乗客が飛行機を「信用する」のと同じです。信用する側(乗客)の心は確かですが、信用される側(飛行機)は、確かかどうかわかりません。(つまり、不確かなのです)。

この問題は 浄土真宗の信心ととても深いつながりがありますので、いずれ、特集を組んで 取り上げさせていただくつもりです。

■ 娘を事故で亡くしました…

【問い】
去年に娘を不慮の事故で亡くしました。その後、亡き娘のホームページも作りました。
しかし、それを誰かに見ていただいて満足をするよりそのような時間があれば、聴聞をしにお寺へ行き、阿弥陀さまのお話をいただいて、何時死ぬかわからない私をなんとかしたいと思うのです。

【答え】
さぞ、お辛い思いをされたことでしょう。謹んで お悔やみ申し上げます。

その昔、和泉式部という歌人(女性です)が、 やはり 子どもさんを亡くされました。
彼女は、歌人ですから、その時の気持ちを古歌に託して

「子は死にて たどり行くらん 死出の旅 道知れぬとて 帰りこよかし」と嘆きました。

亡き子を思い、心配する親心いっぱいの歌です
ところが、その和泉式部さんが 仏教に出会って 歌が変わりました。

「夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり」と。知識とは、仏教語では 「導いてくださる方」という意味です。

つまり、わが子が 自分のいのちを懸けて、母親に

「母さん、これでもわからないの?いつ終わるかわからない いのちだよ。 必ず迎えなければならない死があるんだよ。だからこそ、今のいのち 粗末にせず、大切に生きてよ…」と教えて 仏の国へ 帰っていった。

我が子の死を 嘆くばかりで 無駄にしてはならない。それは、そのまま この私が 大切に精一杯生きぬくことだった…と気付かされた歌だと思います。

思い出すまま、書かせてもらいました。

■ 法事は命日を過ぎたら、よくないといいますが…

【問い】
年回の法事は、早くおつとめするのはいいけど、命日を過ぎたら、よくないといいますが…。本当ですか?

【答え】
よく問われる質問です。遅れたらよくない…と。

その、「よくない」っていうのは、どういう意味なんでしょう?年回の当たっている故人がタタルとでもいうのでしょうか?これはたぶん、「雷がヘソととる」と同じたぐいの言い伝えでしょう。

ところで、どうしてカミナリがおへそをとるか、ご存知ですか?私の薄学な勉強によりますと、

カミナリが鳴るのは、寒冷前線の影響で、寒冷前線は通過した後で気温が下がります。だから、子供たちにはオヘソ(おなか)を隠して冷やさないようにさせなければなりません。

ところが、子供たちに「ただ今、寒冷前線が通過中につき、おなかを冷やさぬように…」なんて言ったって通じません。だから、「カミナリがおへそをとるゾ」って教えたんですね。

つまり、迷信とかではなく、先人の智恵です。

これと、同じような言い方が、「法事は遅れるのは、よくない」…でしょう。

あるご住職から、こんな話を伺いました。

その年、親の25回忌が当たっていました。ところが、命日は2月初めなので、なかなか寒い時期には、親戚も集まりにくいということで、春のお彼岸過ぎにお勤めすることになりました。

しかし、法事の日が近づくとその日は親戚の結婚式が重なっていることがわかり、やむなく5月の連休中に繰り延べました。

すると、今度はその家の奥さんが怪我で入院しました。これでは、とても法事ができる状態ではなくなり、奥さんが全快するのは盆過ぎだから、まあ涼しくなってからということで、秋のお彼岸前に再々変更となりました。

で、結局どうなったかといいますと、秋のお彼岸前も差し支えが生じ、翌年に法事をされたとのことです。

これじゃ、25回忌ではなく、26回忌です。

こんなふうに、われわれ(人間)の予定・計画は、あてにならないものです。だから、大切なことは先送りしないで早めにした方がよいという意味で、「法事は命日を過ぎたらいけない…」となったんだと思います。

 

■ 浄土へ生まれ、仏さまになるのに悲しいのですが…。

【問い】
浄土真宗では、この世のいのちが終われば、浄土へ生まれて阿弥陀さまと同じさとりを開くとききます。
それなら、仏さまにならせていただくのですから、よろこばなければならないのでしょうに、涙でお葬式をしてしまうのは、おかしいことですか。

【答え】
このことは、みんな(親鸞聖人の時代から)思っていたようですね。

こんな話を聞いたことがあります。凡夫(意志が弱く、欲深い自分のこと)が、浄土に生まれて仏となるということは、この世でいえば、大栄転です。

たとえていうなら、広島営業所の所長が、本社の重役になるようなもの。その場合で、広島駅の新幹線のホームでの見送りを考えてみて下さい。見送る側も見送られる側も、共に笑顔ではなく、涙を浮かべている。

見送る側…長年、お世話になりました。どうぞ、本社でも頑張ってください。所長に教えていただいたことは決して忘れません。たまには思い出して、帰って来てください。本当に有難うございました。

見送られる側…こんな拙い上司なのに、みんな私についてきてくれたね。私の仕事業績もみんなの支えのおかげだ。本当にありがとう。元気で…。

どれほど、栄転先が立派な身分役職であろうと、長年 連れだってきた仲間のもとを去ることは、やはり淋しいもの。涙が出るワケです。

このことを、親鸞聖人も、

いまだ生まれざる 安養の浄土は 恋しからず候。

とおっしゃっています。

つまり、長い間生きてきたこの世は 未練が多く、まだ生まれたことのないお浄土は 往きたいとも思われない…ということです。

そして、そんなふうにこの世にとらわれるのもまた、煩悩のせいであるが、如来さまは、その煩悩を目あてとしてこの私をおすくい下さるのであるから、いよいよ頼もしいことですと、親鸞さまは つづけて言われました。

人間ですもの。うれしいとき、めでたいことでも、泣いてしまうことがあるのですね。

 

■ 宗教は人間にとって必要なの?

【問い】
宗教がなくても、道徳が自分の中にあれば、それで十分なのではありませんか?
どうして、宗教が必要なのでしょうか。

【答え】
宗教と道徳について考えてみましょう。道徳とは、「他人に迷惑をかけないように生きる」ための人と人との間の相対的な暗黙のルール的なものといえます。

そして、その上で「よい人間」であることが道徳の目指すところです。しかし、わたしたちはほんとうに「他人に迷惑をかけずに」生きることができるのでしょうか。

▽もし、アナタが電車に乗って座ったとすれば、その座席には他の人は座れませんから、迷惑です。

▽受験に合格すれば、間違いなく他の誰か一人が浪人するわけですから、これも他の受験生にしてみれば迷惑なこと。

▽そもそも、自分の一つのいのちを今日から明日へ維持するためには、たくさんのいのちを食するわけですから、他の生物にとっては大迷惑です。

▼つまり、他人に迷惑をかけない…どころか、「他人に迷惑をかけなければ、生きていけない自分」がありました。

宗教はそういう「自分の存在自体」を問題とするわけです。

善いことと知りながら、よいことができず、悪いことと知りながらも、悪を犯さずにはおれない人間の在り方そのものを見つめていく生き方を示すのが、真実の宗教でしょう。

宗教といえば、神仏を信じ、祈ることで、病気が治ったり、お金がもうかったり、と安全に暮らせること…くらいに思っている人が沢山いますが、果たしてそれが宗教といえるでしょうか。

人間の果てしない欲望を肯定した上で、それを道徳で味付けしてみても、宗教といえません。(宗教法人法上ではそれでも「宗教」ですが…)

そういう意味で、「宗教がなぜ必要か?」という質問が、「宗教は生きていくのに役に立つかどうか」(有用価値)という立場から問うたとしたならば、その答えはありません。

なぜなら、宗教は「役に立つかどうか」以前の問題、つまり、生きるということ人間であるということそのものを問題としているからです。

難しい言い方をすれば、道徳は人と人の関わりの上での相対的な立場で善悪・正邪を問題にします。

宗教では、この私一人が法(教え)の前で絶対的立場で明らかにされるのです。

たとえば、電車でお年寄りに座席を譲ったとします。

これで道徳的には「○」です。

ところが、譲られたお年寄りがお礼の言葉もなく、ぶ然とした態度だったら、どうでしょう?。

「せっかく譲ったのに…」と不満がこみ上げてきます。

善いことをしても御礼がなければ腹を立ててしまう「ほんとうの自分」を見逃さずに言い訳せずに問題にする…、ここからが宗教の世界が始まるのだと私は聞かせていただいています。

 

■ 浄土へ往った父は何をしているのですか?

【問い】
大好きだった父が逝ってしまいました。父は、お浄土へ生まれさせていただいた聞かされてますが、今父のお浄土での生活がどんな風なのか1から100まで 疑問です。
お浄土で何をしているのでしょうか。

【答え】

この件につきましては、残念ながら、私もまだお浄土へ行ったことがありませんので、なんと申し上げてよいやら、わかりません。ただ、浄土へ生まれた方々のことを私たちと同じ人間のレベルで考え(心配す)ると、それは自分中心の的外れなものになってしまうではないでしょうか。

因みに、『仏説無量寿経』には、「仏仏相念」という言葉があります。

「仏さまと仏さまはお互いに(相手の)心がわかる」という意味ですが、それは逆に、「仏さまの心は仏さまでないとワカラナイ」ということでもあると教えて頂いたことがあります。(このことを法華経では「唯仏与仏」とあります)

ちょうど、

*親心が子どもにはわからくて、親となった者にはわかる(親親相念?)

*女性の心は女性同士では通じても、男性にはわからない(女女相念?)

*あるいは、医者の心は、医者ならすぐ理解できる(医師医師相念?)

というように同じ境界(境遇)に身を置かなければ、そのほんとうの心はわからないということでしょう。人間のレベルで浄土を思う(考える)ことは的外れになる…と申したのはこのことです。

そういう意味では、「自分の中に仏さまのこころを入れるのではなく、仏さまのこころの中に自らを置く」、という立場で聞くばかりかと思います。

⇒※[住職ノート]翻訳しない(Ⅰ)翻訳しない(Ⅱ)を合わせてご覧下さると有難いです。

さて私も、8年前に父が急逝した後、当分の間、行き詰まったり、困ったり、淋しい思いをすることがありました。

そして、「もしも、お浄土に電話があったら、通話料が1分1,000円でもいいいから、父に聞きたいことがある…。だれか、お浄土の電話番号を教えて下さいな…。」と恨めしくつぶやいたものです。

でも、四十九日、初盆とご縁を重ねていくうちに、たとえお浄土へ電話をかけることができたとしても、きっと「留守番電話」になっているだろう…と思いました。

そのメッセージは…

「はい。ただ今、留守をしております。浄土にはおりません。

私は、後に遺してきた家族やご門徒、有縁の方々を導くために、南無阿弥陀仏となって前の世界へ戻っています。

御用のある方は、お手数ですが、ナモアミダブツ・ナモアミダブツとお念仏して下さい…(ピー♪)」

最近は、困ったときや嬉しいときには、お念仏しながら、

「なんまんだぶつ。父ならば、こうするだろうな。」

「父ならここで、こう言うだうな、ナモアミダブツ。」

と相談することがあります。

 

■ 故人のためにできること。

【問い】
浄土へ生まれた故人のために、遺された者が何か出来ることはないでしょうか?

【答え】

このことを考えるときも、前のおたずね「浄土へ往った父は何をしているのですか?」で 書いたように、浄土へ生まれた方々のことを 私たちと同じ人間のレベルで考え(心配す)ると、それは自分中心の的外れなものになってしまうことを 注意しなければならないと思います。

たとえば、故人の生前の好物などをお供えすることがあります。もちろん、その心持ちは、私たち人間の感情としてはうなづくことができます。しかし、ただ、そこで「満足」しているのは、お供えした側(こちら側)であって、故人が「満足」しているかどうかは、わからないですよね。

私たちと同じ人間のレベルで考え(心配し)ない…というのはこのことです。

このように考えてみれば、「供養すれば守って下さり、粗末にすればタタル」…なんてことも、こちら側が、勝手に故人を「人間扱い」して=人間並に扱って=決めつけていたということに気づくとことができます

ですから、あえて「故人のため」というならば、それは故人の「死」を無駄にしない、という一点に集約されると思います。

それは 決して 派手な法事や仏事をすればよいということではありません。

亡き方を心配するのではなく、亡き方が「死」という厳しい事実を命がけで示して、この私を心配して下さっていることをたずねていく ことが 「とぶらう」ことでしょう。

厳しい言い方かもしれませんが、浄土へ生まれた人をいつまでも「人間扱い」するのではなく、やがてまた浄土で会ったときに恥ずかしくないように生きていく…それがそのまま、故人の願いに沿って生きてくことになるのではないでしょうか。

「故人のため」と思っていたことが、実はそのまま 「仏さまの(私への)はたらき」を私に気づかさせるためのものだった…となることが、 本当の意味での「故人のため」といえるでしょう。

(ヤヤコシイ 言い回しになりました m(__)m)

これ以上は長くなりますので、このサイト内の次のコンテンツを合わせてご覧下さい。もう少し詳しくお伝えできると思います。

仏事のこころ

お墓

六七日のたより

■ 年回法要を忘れていました。

【問い】
日々の生活に追われるうちに、母の33回忌法要をつとめぬままに 2年も過ぎてしまいました。最近は 母の幻まで見てしまうことがあります。大丈夫でしょうか?

【答え】
あわてないで下さいね。まずは今一度、この「仏事のこころ」をお読み下さい。

仏事のこころ」にありますように、仏事とは 亡き方を心配するのではなく、反対に亡き方に心配をかけるような、危なっかしい生き方をしていないか、と わが身のあり方を訪ねさせていただくことであることを 踏まえて下さい。

さて、そこで年回法要についてお答えする前に、敬老の日について考えてみましょう。敬老の日は以前は 9月15日でした。(近年は9月第3月曜日になりました) そしてその日は、全国各地でお年寄りをご招待して、現在の日本の礎を築いて下さったお年寄りのご労苦に対して感謝する行事が行われます。

では、お年寄りを大切にし、御礼を言うのは その日(敬老の日)だけで いいんでしょうか。次の日からは お年寄りを大切にしなくてもいいんですかね?

いえいえ、そんなことはありません。毎日お年寄りを大切にし、お礼をいうべきでしょう。

ところが、そうは言っても忙しさに紛れて、なかなかお年寄りにお礼を言うことができません。それならば 「せめて」年に一度(一日)だけでも、会社も学校も休みにして、感謝の念を伝えよう… それが 敬老の日 でしょう。つまり ほんとうは毎日が敬老の日なのです。

父の日も母の日もこどもの日も 同じです。毎日が父の日、母の日…であるはずです。ですが、これまた なかなか そうはいかないので「せめて年に一度だけも」…ということになるのです。

あるいは 電車内の優先座席(シルバーシート)はどうでしょう?

これも その座席だけが お年寄りや身体の不自由な方を配慮して譲る席なのでしょうか。優先座席以外では 席を譲る必要はない…ということはありません。車両内すべての席が優先座席であるはずです。

反対からいえば、ここまでしなければ、席を譲ることが 難しい時代になったということかもしれません。だから、せめて一部の席だけでも優先座席としよう…ということです。

年回法要のこころも この「せめて」だと思います。

亡き方からの「命がけの心配をいただく」ご縁です。本来なら 毎年のように丁重に法要を営むべきかもしれません。しかしながら、毎年親戚を招いて…ということも難しいので、せめて 何年かに1度、年を定めて 「年回」の法要をおつとめするわけです。

ですから、便宜上、1周忌・3回忌・7回忌とおつとめしていきますが、本当は 2回忌だって4回忌だって、おつとめしてもいいわけです。毎年が「年回」なのですから。

たまたま 33回忌をつとめ忘れたとしても、そのこと自体はさほど問題では ありません。

いちばん気をつけなければ ならないことは、亡き人のことを「年回法要を忘れていると、タタリや何かの兆しを示す」ような迷える存在と扱うことでしょう。迷っているのは、亡き人ではなく 「この私」でした。

別に34回忌だろうと35回忌だろうといいのです。大切なのは 「この私」が 亡き人を通して、私の「今」を「これから」を訪ねさせてただくことなのだと思います。

よろしければ、このサイト内の次のコンテンツを合わせてご覧下さい。もう少し詳しくお伝えできると思います。

因果の道理をわきまえて(Ⅰ)

因果の道理をわきまえて(Ⅱ)

亡くなった家族の霊のようなものを見たのですが、成仏していないのでしょうか。