ひらがな法話hirahou
仏法の発見
仏説阿弥陀経など お経には いったい 何が説かれているのでしょうか。
そこには お釈迦さまが ご自分で考え・作り出されたことが書いてあるわけではありません。
お経には 「法」 が説かれています。
「法」 といえば 漠然としていますが、「法則」といえば 少しわかり やすくなるかもしれません。
たとえば、ニュートンが発見したという万有引力の法則がありますね。
私たちには、リンゴが 木から落ちると 見えていますが、実際は「磁石がクギを吸い寄せるように、地球が リンゴを引きつけていた」という法則です。
※厳密にいえば、 引力とは二つの物体が互いに引き合い、くっつこうとする力のことです。
質量を持つ物体の間には必ず引力がはきらき、これを「万有引力」と言います。
ですから、地球とリンゴはそれぞれ互いに引き合う力(引力)がはたらいて、質量の大きい(重い)地球が軽いリンゴを引き寄せている …となります。
さらに言えば、地球の引力から地球の自転による遠心力を引いた「重力」が、はたらいてリンゴが「落ちる」わけです。
しかし、ニュートンが法則を見つけたから リンゴは 木から落ちるようになったわけではありません。
ニュートンが法則を 発見しようが、しまいが 地球はリンゴを引き付けていました。
いつでも どこでも だれにも、等しく、変わらず、同じように はたらいているのが法則です。
ですから、来年から引力がなくなって、物が宙に浮き上がるということもありません。(いつでも 変わることはありません。)
また、日本ではリンゴが真下に落ちるけど、イギリスでは、斜め下に落ちるーということもありません。(どこでも 同じです)
そして、磁石は鉄を吸いつけてもプラスチックは引き寄せませんが、引力はすべてのものを引き付けます(だれにも、はたらきます)
「いつでも、どこでも、だれにも」ということは、
「今、ここで、この私が」そのはたらきの中に包まれているのです。
それは、 私がお願いしたり頼んだから ではありません。
私が、気づこうが気づくまいか、覚えていようが忘れていようが、私の思いとは関係なく、すでに私は引力のはたらきの中にいます。
このはたらきを「法」といいます。
そして、お釈迦さまが発見された法が、仏さまの法、仏法です。
お釈迦さまが悟られようが、悟られまいが、真実として はたらく法です。
その仏法の中から、親鸞聖人は、いつでもどこでも、この私に至り届き、声の仏となって寄り添ってくださる阿弥陀さまのはたらき、 すなわち弥陀法をお示しくださいました。
はたらき というのは、チカラとなって届きますが、それ自体は目に見えません。
しかし、リンゴが落ちる様子をみて 引力のはたらきを知ることができます。
揺れる木の枝を見て、風が吹いていることが分かります。
阿弥陀さまのはたらきは、私の口から出る念仏の声となって受け取ることができます。
私が引力を忘れていると 体が宙に浮く…とうことはありません。
私が頼んだからでもなく、私が覚えているからでなく、私の思いとは関係なく、私はすでに今、ここで、引力のはたらきの中にわが身をおもね委ねています。
同じように、
私が頼んだからでもなく、私が信じたからでもなく、
私の「有難い」とか「大丈夫かしら」という思いとは関係なく、
すでに今、ここで、この私が阿弥陀さまの はたらきの中にありました。
「どんなことが あっても、私はあなたを見捨てないよ。
いつでも、あなたのそばにいるよ。どこでも あなたと いっしょにいるよ。
心配ないよ。大丈夫だよ。
どうか、いのちいっぱい、大切に生きてください」
と阿弥陀さまの願いの中に今、ここで、私がつつまれているのでした。
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