放言御免hougen-gomen
坊主丸儲け
法事のお膳の席で、僧侶は 床柱を背に一番上席に据えていただく。(これは「入院患者」のところでも書いたとおりである)
そして、その両隣には まず私と同年輩のような人は座らない。だいたい私の親、もしくはそれ相当の年代の、それもその場において いちばんエライ(いろんな意味で)お方が座ることになっている。
会社の社長さんに 市町村の首長・議員、米つくり名人に 大工さんや漁師さん、起業家もあれば、教育者、芸術家もある…そこでは「日本経済の行方」から「うまい米の作り方」まで聞かせていただく。
どれをとっても、こちらが手土産を抱えて足を運んでお願いしなければ、聞かせていただけないような 貴重なお話である。それを自分が上座に座って、お酒の酌までして頂きながら聞かせていただくのだから、もう たまらない。勿体無い限りである。
上座に座って ご馳走を頂戴し、さまざまな方たちの またとない人生模様を聞かせていただくのである。こんなお出会いのご縁をいただくのだから、なるほど 坊主丸儲けと言われても仕方ないような気もする。(← といっても、上辺だけで思わないで下さい。この文と一緒に放言御免「華やかさのかげで…」をお読み下さることをオススメします)
いや、やはり「丸儲け」という表現はふさわしくない。お寺(僧侶)のつとめ(仕事)は、会社・ビジネスとは違う。金銭・損得・利潤追求は そこには いらない。キザな言い方をすれば、金を動かすのが仕事ではない、人の心を問題にするのだから。
そういう意味でも、僧侶のつとめに「もう、これでいい」というゴールはない。寺院活動も、励んでも励んでも キリがない。逆に、怠けても怠けても どうにかなるような気もするが…。
さらには、「坊さんと味噌は 古いほど味が出る」という言葉があるほど、年を取ってもますます よろこばれる。有難いことだ。
そういえば 父が、自分の幼なじみに
「会社づとめは 定年があって気の毒だな。ワシには定年がない。生涯現役だ。」と威張っていた。
が、同級生も 負けていなかった
「そうか。でも、定年がないかもしれんが、その代わりに退職金もないだろっ!」
やっぱり、坊主丸儲けじゃない! 放言御免