幽霊・霊魂yuurei
(引用元のサイト管理者様には、転記許可いただいています。)
水子の霊はたたるか?
by 河久保同行の部屋 騙されない極意
実は「水子の霊がたたる」という考え方は、医療技術が進歩し、一部の人々が優生保護法のもとで妊娠中絶に安易に走るようになってから広まったものだ。中絶 体験者が健康を害したりすると、その原因を「水子の霊のたたり」に求め、こうした傾向に一部の宗教家が乗って「水子供養」という名の「除霊(じょれい)商法」にとりくむようになった。もともと「水子」は仏教の戒名の一つで、「すいじ」と発音されたものだ。月を満たずに死んだ子を指す「みずこ」という発音が一般化したのは「水子供養」が 一般化してからで、やがて寺に水子地蔵や水子観音が新設されるようになった。昔の民間の風習では、7歳以下の子どもはまだ「神の子」で、「人間の子」とは 見なされず、したがって、死んでも仏にならないと考えられ、葬儀や埋葬も一般の死者とは別の方法でおこなった。
本来、「神の子」である水子は再び生まれ変わる存在であり、この世で何の罪も犯さずに死んだ者なのだから、それが人にたたって病気の原因になるなどという ことは、もともとの日本人の信仰にもなかった考え方だ。この「水子供養」は、1970年ごろから広まっていった、その意味では極めて現代的な風習なのだ。
「霊」とか「霊のたたり」といった話は仏教の教義から出ていると思い込んでいる人が多いが、釈迦仏教の本来の立場は「霊魂不説」だ。つまり、仏教は「霊を説かない」のだ。「霊魂不説」だから、当然、「霊がたたる」などということは言わない。
知人の浄土真宗の僧侶が門徒たちに「霊魂不説」の立場を説いたところ、「嫁にいじめられているので、死んだら化けて出たい。だから、霊は存在しないなどと寂しいことを言わないで」と懇願(こんがん)されたという。
しかし、たとえば、浄土真宗大谷派の難波別院が発行している『南御堂』第372号(1993年8月1日発行)の「塵光」という欄で、「お盆の月だから霊に関する行事が蔓延(まんえん)するが、宇宙と自然の法の道理からは、霊は生じない。霊は妄想(もうそう)の魔物である。だから仏教は霊魂不説である」と明確に論じている。このように、仏教は、本来、何らかの実体をもつ「霊」の存在を認める立場ではないのだが、「輪廻転生(りんねてんしょう)」の考え方、「人間は生まれ変わり、死に変わり」という考え方が導入されてから「輪廻(りんね)する主体」が必要とされ、それを「霊魂」と見なす立場が生まれたのだ。
そして、仏教本来の立場とは別に、現在では、宗派によって「霊」に関する見解に多様性が見られるようになり、それが各宗派の僧侶の態度や仏教行事のあり方などともかかわって、日本人の「霊魂観」に混乱をもたらしているように思われる。
※ 引用元サイトの 河久保同行の部屋 はすでに閉鎖されてました。 このサイトは、仏事についての作法・たしなみ・心得について詳細に解説し、その上で浄土真宗としてのあり方を具体的に提案してある素晴らしいサイトでしたので、現在 閲覧できないことが残念でなりません。
上記 は、 河久保同行の部屋 >騙されない極意>(14)水子の霊はたたるか より引用・転記させていただきました。このサイトでは、仏事についての作法・たしなみ・心得について詳細に解説した上で、浄土真宗として「あり方」を具体的に提言してあります。
このコンテンツ 「騙されない極意」には、「人がいかに騙(だま)されやすく、迷いやすい存在であるか」ということを 科学の立場から 明らかにされている 立命館大学 国際平和ミュージアム館長 安斎育郎教授のお話が、許可を得た上で、引用・掲載してあります。
除霊して、もらえませんか?
by 真宗大谷派順正寺HP
その男性はビルやアパートを管理している会社で働いているという。
アパートに住んでいた人が出ると言うので、その部屋の明け渡しに立ち会った。その直後、誰もいないはずの部屋でおばあさんを見てしまった、という。さら に、帰りの車の中でバックミラーにおばあさんを見てしまったという。あわててブレーキを踏んだ。どうしたらいいのかわからず順正寺に電話してきた。
「霊はいるかいないか。」と聞かれたら、私は答えられない。あえて答えるならば、
「いてもいいし、いなくてもいい。 どっちでもいいのである。」
人は霊を見た。といって大騒ぎをする。特別な体験をしたと思う。まあ、ほんとかどうかは別にして、あまり大騒ぎしないこと。そこに意識を集中させないこと。見たら見たでいい。それで終わり。忘れ去ったらたらいいのである。
たとえば、知多半田の駅前にあなたは立っているとしよう。そこでは多くの見知らぬ人が自分の前や後ろを通り過ぎて行く。そんなとき通り過ぎていく人にいち いち注意を払うだろうか。あ、子供が通った。お爺さんが通った。次は高校生が通った。そんなことはしない。人は来ては過ぎ去っていく。見知らぬ人に特別な 注意を払うことはしない。
霊と言われるものもそのようであったらいい。特別に軽蔑するわけでもなく、忌み嫌うわけでもなく。ただ、いてもいいし、いなくてもいい。すべてを過ぎ去らせたらいい。
ただ、現代の人は忙しい。やらなくてはならないことが山ほどある。自分が何をしたいのか、どう生きたいのかを考える暇がないほど忙しい。こころが亡んでい くのである。こころがスカスカになってしまっている。これでは幽霊が人のこころの中に忍び込む場所がたくさんある。
仕事を一日休んで、ぐっすり寝て、おいしいものを食べて、ガールフレンドがいたらゆっくりデートして、又は息子や娘がいたら、いっしょに遊んでこころも体も充実することが一番大切だ。それなら、こころが亡んでいくことはない。
こちらのこころが充実していたら、仮にもう一度おばあさんと出会っても、今度はよく見定めて、どんなおばあさんなのか、どんな表情をしているのか、足はついているかどうか、それでいて過ぎ去ればいいのである。
霊自体に、かみつかれたとか殴られたと言う話は聞いたことがない。霊を見てしまったと、びっくりして走り出して何かにぶつかったと言う話ばかりである。
※ この文の前後には、まだ記事があります。詳しくは引用元ページをご覧下さい。
引用元の順正寺さんは、真宗大谷派(東本願寺)の寺院です。Webサイトは 最近リニューアルされたようですので、
上記の記事は。リニューアル前のサイト 順正寺ホームページ > プンダリーカ> 除霊して、もらえませんか より引用・転記させていただきました。
幽霊って いるの?
by ポチの人生ひとり言 「ポチのひとり言」
いません。
あなたの心の中の恐怖や悲しみ、苦しみを他のものにおしつけたい表現の一つが、幽霊です。
たとえば、夜中になにか物音がしたとか、白い影が見えたとか、そのようなことがあったとします。それはあくまで現象です。その現象があなたの心の中にはた らきを促し、それが心の中から出て示すのが祟り(たたり)です。祟りという字は、だから出て示すと書くのです。
あなたは幽霊を見たことがありますか。知っている人が見たというのでは話になりません。見たという人も、冷静に考えて下さい。その時の気持ち次第で何にで も見えたのではないですか。きつねつきなども、いまでは多重人格、もしくは自己催眠という病名がはっきりと出てきます。
恐怖の表現が幽霊なのです。幽霊はそれを信じている人の心の中でしか存在しません。心の中の恐怖や情念がそれを作り出すのです。それより恐いのは、その心の中にいる幽霊で金儲けを企んでいるやからが、多く存在するということです。
幽霊を肯定する人。それはよっぽど思い込みがはげしいか詐欺師かどちらかです。
あなたの恐怖という感情を死んだ人のせいにしないで下さい。死んだ人が迷っているんじゃない。そう思っているあなたの心が迷っているのです。
引用元サイトの ポチの人生ひとり言 すでに閉鎖されて現在は閲覧できません。 年齢・性別不明の「隣野ポチ」さんが綴られる 宗教学、仏教学、真宗学を修めた上で、ナマの生活に届くように「念仏の道」は 思わず、「!」というふうに相づちを打ってしまうサイトでした。残念です。
上記「幽霊っているの」は、 ポチの人生ひとり言 >ポチのひとり言>幽霊っているのより、引用・転記させていただきました。
Q.亡くなった家族の霊のようなものを見たのですが、成仏していないのでしょうか。
今回のご質問は神戸にお住まいで最近何かと世間の風当たりが強い、野村沙知夫(仮住所・仮名)さんからです。
お答えいたします。
亡くなった方の幽霊とか亡霊とかを見たという話をよく聞きますが、沙知夫さんも見られましたか。私も亡くなった父を幽霊でもいいから見たいと思うのですが、なかなかそのような形で出てきてはくれません。 たまに夢に出てきてくれるぐらいです。
ですから沙知夫さんのように親しい人が出てきてくれたらどんなに嬉しいことだろうと思います。それは宝くじに当たるより確率が低いことではないでしょうか。
ところが多くの方はそのような喜ばしいことを否定的に考えております。「何か悪いことが起こるのではないだろうか。」とか、「きっとこの世に未練があるの だ。」とかです。亡くなった人が何か悪いことを引き起こすことはまず考えられません。特に大事な家族に故人が危害を加えるようなことは私にはとうてい考え られないのです。
また、幾つで亡くなっても、どのような亡くなり方をしても、みんなこの世に何某かの未練を残して死んでゆくのではないでしょうか。
どうもそのようにいわゆる幽霊を見たり、見たことを否定的に考える人は、生前に故人との間に何か問題があったか、現在精神的にダウンしている状態か、ある いは誰かにとんでもないことを吹き込まれているかのいずれかだと思います。私の経験ですと、両親や家族といった、まわりに迷信深い人がいる場合、そのよう な幽霊とか亡霊、あるいは霊現象を信じる人が多いようです。
仏教では諸行無常(あらゆるものが一瞬一瞬の間に移り変わっている)や無我(我と呼べるようなものを何一つ持たない私、縁によって成り立っている私の存 在)を説きますので、霊魂のように亡くなっても生前のような姿や心(恨みや悲しみの心)を持つといった固定的な存在は認めません。
しかし、見たと信じきっている人には(たとえそれが幻覚や錯覚であっても)恐怖の存在として幽霊や霊魂はあるようです。本人が見たと信じている場合、まわりの者が何を言っても聞き入れてくれませんが、でもこのことだけは気をつけていただきたいものです。
それは、故人をそのように迷いの存在とか悪霊と考えることだけは止めていただきたいということです。故人の幽霊を見たと信じておられることは結構ですが、故人が厄をもたらすなどと否定的に考えることだけは止めましょう。
もし自分の目や精神状態に自信があり、幽霊を見たと信じておられるのなら、見たことを感謝しましょう。そして、そのような幽霊になってまで私のことを心配し続けて下さる、尊い仏さまに故人がなられたと考えてはいかがでしょうか。
沙知夫さん、もし今度また故人の幽霊を見られたならば、じっくりと話し合われることを提案いたします。幽霊が話し合いに応じてくれるかどうか分かりませんが、とにかく対話が大事です。
喧嘩しないで仲良くしましょう。
※ 上記は来恩寺HP>メニュー2>仏事の迷信Q&A>No.10 より、引用・転記させていただきました。
来恩寺さんは、そのHPの冒頭に「楽しくなければお寺じゃない」(来恩寺の主張)とあるとおりの活動をされている元気なお寺です。ご住職の「あたたかさ」と「ユーモア」と「バイタリティ」は、HPからも伝わってきます。なんだかこっちまで元気がでてくるONSAI イチオシのお手本サイトです。
Q. 「霊魂は有るのか無いのか?」
by (旧)眞光寺HP 仏声人語 第8回 【霊魂】
「霊魂は有るのか無いのか?」
さあ、皆さんはどう思いますか?実はこれ、問いが間違っているのです。答えの出せない問いは、問いにならないのです。たとえば、「愛はどこにありますか?」って聞かれても答えられませんよね。
お釈迦様はこのような問いに対しては、「沈黙」されました。
私は若い頃は、霊魂なんかあるはずが無い!と豪語しておりましたが、「無い」という結論を下すのは「有る」ことを証明する以上に大変なことなのです。
もちろん霊魂・幽霊・UFOの存在はいまだ証明されていません。だからといって直ちに存在しないとは論理的に決して言えないのです。宇宙のすみずみまで探して、初めて実証的事実として「無い」と言えるのです。これは科学の判断です。
とはいえ、霊魂の存在をかたくなに信じ、悪霊に祟られている、と主張する人はたくさんいます。その逆も同じ数がいることでしょう。これは客観的な科学的判断ではなく「主観」です。
ですが私は、仏教者としてそんなことどっちでもいいのです。見たとか、見ないとか、そんなことよりも今日、教えに触れていることの方が大事なのです。答え の出ない未確認現象の有無を問うようなこと、それを仏教では「戯論;けろん」といいます。観念遊戯なのです。何とでも言えるのですよ。
霊魂があると言う人は、おそらく先祖の霊が災いして今、何らかの苦を受けている人だと思われます。その苦しみの原因をよく調べずに、とりあえず御先祖の霊魂のせいにしてしまうのです。
つまり、現実逃避し、自分のこれまでの行動を正当化させるためには、霊魂がなければ困るのです。それで寺で除霊してくれたら私はハッピーになるという論理なのです。
・・・少しおちついて考えましょう。
人間生きてりゃ、天皇陛下でさえガンにもなるし、事故・火事にも遭うし、離婚もするし、リストラもされます。それぞれにいろんな原因があって結果がありま す。そのどうしようもない悲しみ・辛さを私一人が背負うのは耐え切れないから霊魂のせいにしてしまうのでしょうね。
でも決してご先祖はあなたに災いをもたらしはしません。逆に守ってくれると考えるのが普通でしょう。あなたは死んだらかわいい子孫に災いをもたらしますか?世の中には霊媒師だとか除霊師が好き勝手いって、霊魂をネタにして暴利を得ています。
生きていくには、辛いことを受け入れる心構えが必須です。悲しみの中に希望を持つことが大事です。その為には仏の教えを聴聞せねばなりません。無事平穏なうちに、元気なうちに聞きましょう。
それが浄土真宗・念仏者に出来る全てです。それ以上の美味い話はありません。
それでも除霊してほしいという方、いつでもお越しください。ワシが除霊します。ただし霊魂を風呂敷に包んで持ってきてくださいよ。(一休さんのフスマ絵のトラ退治みたいやな・・・)
引用もとの真光寺様のサイトはリニューアルされて、上記「他力とは心の目が覚めること」は 新しいサイトでは掲載されていないようです。
上記はリニューアル前の 眞光寺HP メニュー2>仏声人語 第8回 【霊魂】 より、引用・転記させていただきました。