住職ノートnote
翻訳しない(Ⅰ)
米国在住のご門徒より頂いた「メールアドレスの変更通知」には、日本語文のほかに、同内容の英文がその下にありました。(英語圏の方々への通知用でしょう)
私は、興味半分で その英文を インターネットの翻訳サービスサイト で翻訳してみました。すると、コンピューターの訳は、いかにも機械的で全く トンチンカン なものでした。
たとえば nature calls me (英語の言い回し=慣用句)は
「トイレに行きたい」という意味ですが、それを
翻訳サイトで 訳せば
「自然が 私に電話をかける」 という極めて
意味不明なものとなりました。
上記のメールの訳も、あまりに笑ってしまうよう迷訳でしたので、私はそのまま添付して返信しました。(デジタル翻訳の限界を苦笑する意味で…)
すると、米国からの返信には、
英文と邦文は互いに翻訳しないというのが窮屈でない
生き方だと思っています。
とありました。英文は英文のままで…(翻訳しない)。そうなんですよね。
英語で考え、英語で表現されたことを わざわざ自分の側(日本語)に持ち替えて(翻訳して)、「理解」しようとするのは、傲慢的・自己中心的なことかもしれません。
どれほどの 名訳であったとしても、「翻訳」という時点で「原本のこころ」が (善い悪いは別にして)歪んでしまっているということを見逃してはならないと思うのです。
英語で表現されたものを日本語として無理やり頭の中に取り込むことは、その形を変えて押し込むことですから、その点を 「窮屈」と言われたのでしょう。
私たちが、仏さまのこころを いただくときにも、それを 「わかる」ために、いろんな計らいをしてしまいます。でも、これまた、大きな大きな仏さまのこころを 小さな小さな自我の殻(自分の頭)の中に押し込めようとするわけですから、やはり 「窮屈」なことです。
自分の中に仏さまのこころを入れるのではなく、仏さまのこころの中に自らを置く…ことが大事なのでしょう。