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住職ノートnote

アインシュタインが聞く


あの有名な物理学者 アインシュタイン博士が来日された折、博士が仏教の話が聞きたいということで、浄土真宗の僧侶である近角常観師が 博士と対談しました。

そのときアインシュタイン博士が
「仏さまとはどんな方ですか?」とたずねたそうです。

すると 近角先生は、おもむろに あの「姥捨て山」の話をはじめられました。

ご存知の通り 日本では、その昔 食糧事情の貧しい時代には、一定の年令になれば、年老いた親を山の中に捨てるという悲しい歴史がありました。

村の掟(おきて)ですから、そむく事はできません。息子は母親を背負い、いくつもの山を越えて、人里離れた 奥深い場所へと向かいます。

いよいよ、別れの時、母親が 息子に
「おまえは こんな山奥まで来た事はないだろう。迷わず家まで帰れるか?」とたずねます。

そして、
「もうすぐ、日も暮れる。 私は背負われながら、来る道中に 手を伸ばして木の小枝を折っては、下に落としておいた。

だから、通ってきた道には 必ず小枝が落ちている。もし、分かれ道で迷ったら、小枝の落ちている道を選んで 行くがいい…。そうすれば、必ず里のわが家の灯りが見えるはずだ。どうか無事に帰っておくれ…」と言って、わが子に手を合わせました。

ここまで話して、近角先生は、アインシュタイン博士にいいます
「この母親のすがたこそ、仏さまの姿であります」と。

母親は、山の中に置き去りにされたなら、山坂を越えて家に戻るだけの足腰はありません。
きっとその日の夜のうちに 凍え死ぬか狼の餌食となるばかりです。そんな状況の中、母親は息子の心配をします。

つまり 今、まさに自分を捨てんとするものを 見捨てることが出来ないのです。
自分を殺そうとするものを 生かそうとするのです。
これこそ、仏さまの お慈悲だと言われたわけです。

私たちは、 とても仏さまのようにはいきません。
自分を大切にくれる人を 大事にします。そうでない人は 粗末にします。あるいは、今 相手を 手伝って助けているのは、また今度 お世話になるかもしれないからっだったりします。

仏さまは、大きな大きな(こんな私たちの はかりをこえた)おはたらきでもって 私たちをつつんでいてくださいます。
拝んだから、助けてくださる。拝まないなら、捨てられるなどと、私たちの小さな心で、仏さまの大きな心をはかってはなりませんね。

仏さまを 拝まない時も 拝まれていました。
拝まない人も、拝まれているのです。