住職ノートnote
いうことを きく
本願寺出版社刊の「南無のこころ」(雪山隆弘)を読んでいましたら、
南無を一言でいえば「いうことを聞く」、はい、それだけ。
とありました。
誰のいうことを聞くのかといえば、南無―阿弥陀仏だから、阿弥陀さまのいうことをきくってこと。なぁ~んだ、ということなかれ。
だって、アナタ、だれのいうこと聞いてます?仏さまのいうこと、ちゃんと聞いてますか?いえいえ、これがなかなか聞かれない。
ちなみに、我が家の子どもたちをみていると、この私が今まで誰のいうことをきいていたかを思い出します。
保育園の末娘は、父親が「〇」だといっても、母親が「×」と言えば「×」になります。ホント、母親のいうことは絶大なる信頼をもってききます。これが、ナモかあちゃんです。
しかし、小学生の息子たち二人の前では、母親のいうことも通用しなくなりまして、母親が「白だ」といってもだめ。「だって、先生が赤だといったもん」です。これが、ナモ 先生。
こうしてナモ先生のまま、先生のいうことをきいてくれていたらいいのですが、中学生の長女は、鉛筆一本選ぶのにも、「友だちが、友だちは…」とナモ友だちです。その発展形が、ナモ恋人でしょうか。
結婚してからは、ナモ主人・ナモ女房と言う間が、新婚さん。そのうち、主人のいうことも、女房のいうこともきかなくなって、ナモ子ども。
子どもが巣立てば、ナモお金、やがて誰のいうこともきかずに「テレビがいってた…」と経験もしないで、したり顔のナモテレビ です。
どうですか。いうことをきいてきた相手は、時がたてば、みんな移ろい変わっていくものでした。あてにならない、不確かなものです。
そして、結局当てなるのは自分だけ(ナモ自分)…というその自分がまたアテになりません。今日は腹を立てまいと思っても状況次第ではわかりませんし、無常の中にその身をおく以上、健康もいのちも不確かなものです。
こうしてみると、いちばん確かな、間違うことのない阿弥陀さまのいうことをきかずに、不確かなものを支えに生きているのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまのいうこと(仰せ)を仰せのまま、ハイときくこと。
では、阿弥陀さまは、何とおっしゃるのでしょう?
それは、定番のいい方をすれば
いつでも、どこでも、だれにでも、やさしく、そのまま救うぞ
とおっしゃっています。
その上、「いいことしたら救う」とか、「〇〇をしたら救う」といような条件は一切ありません。無条件の救いです。
どうして、そこまでしてこの私を救おうとされるでしょうか。
そのお心をたずねていきましょう。