住職ノートnote
ココロとカタチ
「私、お仏壇やお寺にはお参りしませんが、ちゃんと心でお参りしてますから、ご心配なく…。」
いわゆるインテリ層、知的な方からこういうセリフを聞くことがあります。
「カタチよりココロが 大切なのです。カタチにこだわるより、ココロが一番です。いくらカタチが立派でも、ココロが伴わなければ意味がありません」と。
ご本人は、「どうだい、これで何にもいえないだろう」という顔をされています。
全く正論。でも、どうなのでしょう?ホントにそうなのでしょうか。
ココロは目に見えないので、いくらでも誤魔化せます(周りも自分も)。だけど、カタチはごまかせません。大なり小なり自分が動かなければ、カタチにならないのですから。
本来、カタチとは 目に見えない真実(ココロ)を表したものだったと思うのです。そして、そのココロはカタチを通すことによって伝えられてきた。だから、ココロがなければ、カタチもなかったのでは、って。
今、「カタチよりココロが大切だ」といって カタチを崩して、カタチといっしょに伝えられてきた大切なココロまで失ってしまってはいないでしょうか。
※このことについて、裏千家茶道では、
稽古で「型」を習い、そこに「心」をいれて「形」にする。「心」という見えないものを、見える「形」として、「心」を差し上げるのがお茶のおもてなし。
だと聞きました。
つまり、カタチは、型に心が入って心を伝えるものとあります。
さて、本願寺には700年に亘って伝わる古式にもとづく儀式があります。
ある時、その儀式に参列していたエライ役職のお方が、無意味そうな作法を強いられてイライラされてのでしょうか、担当者に向かって
「こんなバカらしい儀式ではなく、時代に応じた作法に変えたらどうなんだ。」と文句をつけたそうです。
すると担当者は
「このお作法の一つ一つは、親鸞聖人をお敬いする心をカタチに表したものです。貴方さまの勝手な思いや都合で、作法を変えろと仰るのは筋違いです。変えなければならないのは、作法ではございません。あなた様(の心持ち)こそ、お変わり下さい。」と一喝。
そんな話を聞いたことがあります。
うん。これはスゴイ!地
真実(ココロ)を伝えんとして表した儀式(カタチ)を差し置いて、自分の間尺(自己中心の横着ココロ)を優先して、カタチを変えろとは何事か…。上の立場の人に対しても、ひるまずに スカッとです。
でも、それはまるで、同じような理屈でカタチを壊しているこの私へ突き付けられてような言葉のようでした。
カタチに込められた大切なココロ(真実)を受け止めるには、わがココロを持ち込まず、わが身をカタチに従わせて受け止めるしかありません。
仏さまの前に座ることもなく、ココロでお参りしたツモリで済ませるお方は、今日から ご飯も食べたツモリ。お酒も飲んだツモリ。旅行も行ったツモリで、な~んにも しないほうがいいかも。