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住職ノートnote

翻訳しない(Ⅱ)


今春からアメリカ大リーグで松井選手が活躍しています。
あくまで 私の想像ですが、たぶん松井選手はまだ、聞こえる英語を 頭の中で日本語に翻訳して その答えを日本語で考えてそれを英語に訳して 話している ことでしょう。

しかしイチロー選手などのように、3年目くらいになれば、聞こえる英語を そのまま英語で答えを考えて 英語で 話している…らしいです。(それでないと間に合わない、と聞きました)

「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。
万法すすみて自己を修証するは悟りなり。・・」
という道元禅師の「正法眼蔵」の言葉が重なります。

「翻訳しない(Ⅰ)」で、書きました
自分の中に仏さまのこころを入れるのではなく、仏さまのこころの中に自らを置く…ことが大事なのでしょう。

という言葉を そのまま
私の頭の中に英語(英文)を入れて(翻訳して)理解するのではなく、英語環境の中にわが身を置く ことが 大事でしょう。…と言い代えることができます。

「英文と邦文は互いに翻訳しない」という言葉は、私にそんなことを 改めて思い知らせて下さいました。

思いますに、考えれば考えるほど、「翻訳」とは 難しいものです。
そう思うと、インド(梵語)の経文を中国語に翻訳した人たち(三蔵法師など)の熱意と努力と知性と感性は 想像を絶するものだったと今さらながら感嘆します。

A言語からB言語へ翻訳するということは、A・B両言語を しっかりと理解・体得されていなければならないわけですから。
ということは、お釈迦さまは A(仏さま)言語とB(人間)言語の両方に精通(?)していらっしゃったから、私たちに経典を説いて下さることができたのですね。

うーん。なんだか、仏さまの心知らずして、「わかりやすく仏教をお伝えしよう…」などという、このサイトの視点も 考えなおさなければならないもしれませんねぇ。