住職ノートnote
わが身を知れよ …(続・親指小指の法則)
故・雪山隆弘先生は、ご法話の中で、
南無阿弥陀仏とは、如来さまが私に呼びかけて下さる「わが身を知れよ」というメッセージである
と教えて下さいました。
ここでは、自分の手(指)を通して、
その「わが身」の2つの面を知らされます。(このつづきを読む前に、まず、親指小指の法則 をご覧ください)
1番目は、小指によって知らされる よそ向きの私。
忙しい、忙しいと、仏さま(真実)の方を向くこともなく、アクセクしています。
そして、その方向が、自分中心の身勝手なものだとは考えず、「間違いない」ものだと思い込んでいる「わが身」です。
そんな よそ向きの私 に対して 阿弥陀さまは、「こっちを向きなさい」とは おっしゃらない。言い換えれば、「立派な人になりなりさい」、「善いことのできる人になりなさい」とは 言わないのです。
なぜなら、阿弥陀さまは、この私以上に私のことを知り抜いておられるからです。
■ちょっと 善いことをしても、相手が「有難う」とお礼を言わなければ、腹を立てる…(雑毒の善=ぞうどくのぜん=といいます)、
■僅かでも修行を積んだとしても、その修行した年数(量)の上にあぐらをかいて、自分より修行年数(量)の少ない者を見下げてしまう(虚仮の行=こけのぎょう=といいます)
■偉そうなことをいっても、最後は損か得か、みんな自分の都合次第で決めている…。
仏さまは、そんな私(ほんとう私)のことを 私以上によくご存知でした。
だから、「こっちを向け」とは言われない。
よそ向いてしまう(自分中心の)「わが身を知れよ」とおっしゃるのです。
「他人に迷惑をかけない立派な人になれ‥」 ではなく、
「迷惑をかけなければ、生きていけないことに気づいておくれ」 とおっしゃるのです。
そして、そんなよそ向きの私だからこそ、見捨てることができない、放っておけないと、いつでも、どこでも あたたかいまなざしの光の中に包んでいて下さいます。
それが 親指の向きで知らされます。
だから「わが身を知れ」の 2番目の「わが身」とは、そんな
阿弥陀さまの光の中につつまれている「わが身」です。
思いますに、よそを向くわが身が 知らされたのは、阿弥陀さまの光に照らされた(真実に出あった)からでした。それまでは、よそを向きながら、それ(損か得か)が真っ直ぐ(真実)だと思っていたわけです。
「ナモアミダブツ…」は「わが身を知れよ」という如来さまからのメッセージ。
親指・小指を同時に曲げて、お念仏して下さい。
①いつも欲と二人連れの自分勝手な生き様の「わが身」
②いつでも心配してくださる阿弥陀様の光の中につつまれていた「わが身」
そんな2つの「わが身」が知らされます。
ナモアミダブツ。ナモアミダブツ。ナモアミダブツ。